My Works

ハリー・ポッター

 

ハリー・ポッターと
賢者の石
Harry Potter and the Pilosopher's Stone
著者 ローリング J.K.(Rowling J. K.)
松岡 佑子 訳 静山社

(1999年12月8日刊)
ISBN4-915512-37-1

ハリー・ポッターと
秘密の部屋
Harry Potter and the Chamber of Secrets
著者 ローリング J.K.(Rowling J. K.)
松岡 佑子 訳 静山社

(2000年9月19日刊)
ISBN9-15512-39-8

 この欄は読書の感想でも書こうというつもりではじめたものである。しかしながら、私はいつもそこで取り上げる本とは直接は関係ないことから入る癖があるようである。今回もその例に漏れず、私が日常的にどんなものを読んできたかと、少しこれまでの自分を振り返ることから話をすすめたい。

 学生時代とそれに続くひと頃は、学術書や東西の古典などを読まなければ「自分は教養人ではない」などと思い詰めた時期もないわけではなかった。しかし、これは古典的教養主義にいわば毒されていたのではないかと、今では考えている。文学の研究者とか国語の教師になるのならともかく、現代の最前線で働く人間は、そんな悠長なことはやってはおられない。毎日それこそ気の狂わんばかりの仕事が押し寄せる。それも気を使うばかりでなく相当に頭を使わないと、全部をとてもこなしきれない。加えてたまには英語での交渉はあるし、専門分野は次々にいろんなことが起こり、その分析と対応に大忙しである。特に近時は情報技術が日進月歩で、世はドッグイヤーの時代に突入している。

 走りながらでも全部を処理できないのに、そのうえ平安時代や古代中国の古典など読んで何の役に立つのかという気分になるのに、そう長くはかからなかった。「これらは戦前の教養主義である。これだけ国際化した現代にはそぐわない。そうだ、古典などは時間のあり余るご隠居さんになってからゆっくりと楽しもう!」 こう割り切ってからはとても気が楽になり、お気に入りの歴史物を中心に好き勝手な乱読の世界に入っていった。司馬遼太郎の著作はほぼ網羅し、豊田 襄の戦記物はよく読み、その他アメリカのビジネス書に、ちょっとしたノンフィクション物など手当たり次第に気に入った本ばかりを読んだのである。

 これらの書物は確かに私の心の糧となっていったが、しかし振り返ってみると、人間観察と現代の社会人としての教養に本当に役立ったのは、むしろ私が毎日のように接していた新聞や雑誌だったのではないかと思うのである。私はおおむね学生時代から現在に至るまで、日刊新聞は日本経済新聞と朝日新聞、月刊誌は文藝春秋を読むことを欠かしたことがない。以前はこれに中央公論も入っていたが、その教条主義的なところが気に入らなくなり、かなり早い段階でやめてしまった。このほか、勤めてからは経済記事を読むようになって週刊誌の東洋経済が加わった。この雑誌は、近頃はかつてほど面白いとは思わなくなったが、ともかくまだ続いている。

 肝心の本業の法律関係については、昔から判例時報などの判例誌は仕事柄しばしば読んでいたし、そのときどきの仕事に関係なくとも、判例にあらわれた事件の内容と判決はとても面白くてためになる。しかしながら法律の学生や専門家なら必ず読んでいるといわれる法学教室やジュリストについては、有斐閣の方には悪いが、中身がどうしてこう堅苦しくて勉強や実務の役に立たないのだろうという思いが当初からあった。今やたまにはこれに投稿する立場になってしまっているが、白状するとこの二つの雑誌はこれまで特定のシリーズや一部の記事のつまみ読み程度しかしていない。身の回りにあるとつい手に取ることはするものの、全ページをくまなく読むような元気は出ない。しかし、それでも学業や仕事に支障を来たすことはあまりなかったと思う。

 私の若かった時はしばしば明け方まで働かざるをえないような厳しい仕事をしていて、ともかく何をするのにも時間がなかった。しかしそのような中でも、目の前の仕事ばかりに気を取られていては知識が偏った人間になりそうなことが嫌であった。そこでたとえ仕事でどんなに多忙なときでも、歴史やノンフィクションなどのいろいろな単行本とともに、これらの新聞や雑誌は、自分にむち打って必ず読むようにしたものである。

 もちろん、自分自身が社会に出てみて新聞や雑誌に載っている記事の裏表がわかるようになると、これらの記事の少なくとも半分近くは嘘か間違いか偏った見方ではないかということに気が付くのにそれほど時間を要しなかった。よく、こんないい加減な記事を学生時代は信じていたものであると自分の不知をあざ笑ったこともある。しかし、それはそれでいわゆる反面教師というもので、記事の真贋と価値を見分ける本能的嗅覚ができてきたように思う。もっとも、そういう社会人としての「うがった」見方はともかくとして、これらは、私の社会に対する知識と物事の本質に対する考察力を養ってくれたのである。私はそれに純粋に感謝したいと思っている。

 前置きが長くなったが、2000年11月の文藝春秋の81頁に、松岡祐子氏(静山社社長)の「私は魔女?」という記事が載っていた。「ハリー・ポッターと賢者の石」という本の訳者兼出版者の方らしい。そういえば今年の7月のはじめ頃に、世界各地で子供たちがこの本の続きを買うために本屋にたくさん並んでいた。そこで、これは一体何だろうと思ったのが本日の書評の始まりである。長年の文藝春秋の読者ということで甘えて、ちょっぴりその記事をかいつまんで引用させていただこう。

 「ハリー・ポッターと賢者の石」は、1997年に英国で出版されて全7巻の予定で今年の7月のものは4巻目である。世界で3800万部も売れ、35ヶ国語140ヶ国で発売された。作者のローリング女史は、離婚と失業を経験し、乳飲み子を抱え貧乏のどん底の中で、生活保護を受けながらコーヒー店の片隅で書き始め、ようやくできた原稿を出版社に送ったところ、大手からは長すぎると突き返され、ようやく一年後に中小出版社から出された。それから、版権や映画化権の高額買い取りで億万長者となった由。その訳者兼出版者である松岡祐子氏も、夫に先立たれて社員三人の小さな出版社を引き継いだ。そういう厳しい境遇の中で、情熱を傾けて版権の獲得と翻訳をしたらしい。いずれも、それ自体が人生のドラマである。

 それで、肝心の「ハリー・ポッターと賢者の石」であるが、冒険と勇気とロマンが魔法の世界で味付けされて、とてもおいしい料理になったようで、一気にペロリと平らげられる本である。面白い。それだけでなく、読後感がさわやかである。可哀想な境遇の主人公がいて、いじめっ子が大勢出てくるし、友情も危険な冒険も、これでもかとばかりに次々に展開されていって、全く飽きることがない。日本のドラえもんのおなかの不思議なポケットも、よくこんなことを思いつくものだと思うが、この本もそれと似たようなものである。

 ハリーというのは、孤児の主人公である。ホグワーツ魔法学校に入学を許され、そこには、賢人のダンブルドン校長、謹厳なマクゴナガル副校長、親友の赤毛のロンに、大秀才の女の子ハーマイオニー、それに間抜けなネビルなどいろいろなキャラクターがいる。そこでいろいろと大騒動が繰り広げられるが、そのクライマックスとして、ハリーはその両親を殺した邪悪な魔法使いであるヴォルデモートとの運命の対決を迎え、からくも生き残るという筋立てになっている。それに、様々な小道具がでてくる。たとえば、最新型超高速箒ニンバス、空中で繰り広げられる変なスポーツのクイデッチ、学校に住み着くおばけ、夜中に抜け出して遊びに行く肖像画の婦人などである。

 ホグワーツ魔法学校に入学するまでのハリーの境遇は誠に悲惨である。現代の日本における「いじめ」の比ではない。幼児虐待の世界そのものである。これは西洋の童話のひとつの典型パターンではないか。たとえばあの白雪姫も同様の設定になっていて、継母のつらい仕打ちに耐え、主人公は幸せをつかむというストーリーである・・・・。しかしまあ、こうした評論家的態度は、この本の読者にはふさわしくない。ともかく手に取ってみて、次々に展開されるドラえもん的世界に、ただただ浸って「面白かった」という、そんな本である。

 原著者は、全七巻の構想でこの本を書き始め、「ハリー・ポッターと秘密の部屋」が第二巻目となる。あらすじは、こうである。ホグワーツ魔法学校で一年間を過ごしたハリーは、夏休みとなってロンドンのダーズリー家に戻った。しかし、ハリーを良く思わない意地悪なおじとおばに監禁され、ハリーは魔法を使うことを禁じられているので餓死寸前に至る。そこを同級生のロンに助け出されて学校に戻った。ところが、新学期が始まった途端、学校を姿なき声が襲い、犠牲者が次々と出て、疑いはハリーにかけられた。ハリーは再び悪魔ヴォルデモートと対決した。うーん、私もだんだんこの世界の人間になってきてしまった。

(平成12年12月8日著)
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