第32回 日展



場 所  東京都美術館
平成12年11月2日より24日まで



 毎年11月は芸術の秋たけなわというわけで、展覧会を見て回るのにいろいろと忙しい。特に上野公園には、何回か足を運ぶこととなる。

 中国の国宝展に続いて、今週は「日展」を見に行った。一度これを見た人はわかるであろうが、これをすべて見て回るのは、とても疲れるものなのである。朝から気を入れてかからないと、途中で疲れて動けなくなってしまう。それもそのはずで、絵、工芸品、彫刻それに書道作品が、東京都美術館のほとんどの部屋を使って会場いっぱいに所狭しと並べられている。それも、何千点あるのかわからないほどである。これらを3階から地下3階まで全室をくまなく走るようにして眺める。もう、鑑賞というレベルではない。次から次へと、最後はまったく嫌になるほど作品が並んでいる。今回も私は疲れ果てて、最後の書道はパスしてしまった。

 作品の質は、はっきり言って、玉石混交である。長年これを見ていると、これらの石の中から玉を探し出すコツのようなものがわかった。それは、作品の種類によって違うのである。まず絵画の場合には、最初に各会場の入り口にある絵の写真販売コーナーに行って全体を眺め、それで印象に残る作品を記憶する。それから、各部屋を回る。そうすると、たいていの作品は、写真の方が綺麗に写っているのである。これは不思議なことで、たとえば夕暮れで周囲一面が青暗くなってきている中で、山々に囲まれた湖を描写した絵があった。写真では、湖の色と夕暮れの青暗い背景とでは、はっきりとした色調の差異がある。ところがその実物を見ると、全体がぼやけてどこもかしこも同じような色になってしまっている。ひょっとして、私の目が悪いのかとも思うほどである。しかし私は決していわゆる色盲や色弱というわけではない。こういう絵は、その作品自体が悪いと考えるべきであろう。

 ところが、良い作品の場合には、写真よりも実物の方がはるかによろしいのである。というわけで、私は絵を見終わった後で、再び入り口の写真販売コーナーに行き、その気に入った写真を買うのである。そのようにして買い求めた写真をデジタル化したものが、以下に示すものである。ちなみに、今回購入した写真の数はあまり多くはない。その中でも、女性の絵が結果的に多くなってしまった。これは必ずしも私の趣味ではなく、本当は風景画などをもっと欲しかったが、私の好みの題材の絵がなかっただけにすぎない。去年の場合は、熱帯の美しい海の中を亀や魚が泳いでいる作品があった。

 以上のことは、日本画も洋画も同じである。ところが工芸品と彫刻の場合には、話は全く違い、ほとんどの作品について写真なぞよりも実物の方がはるかに良いのである。なぜかと考えてみたところ、工芸品の場合はそもそも立体的なものが多いので、写真の平面の枠では十分にとらえきれていないからであるのがひとつの理由と思われる。ただ、それだけではなくて、そもそも工芸品の方が作品の質が良いからではないではないかと考える。

 というわけで、今年も見終わった後は、また1年ぶりに、くたくたになってしまった。


(平成12年11月19日著)

(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)







出品作品 インデックス
聖なる歌 水無月の街 山古志村之牡牛 五月の西秩父
メキシコ暮鐘 朝の調べ 風のカルテット 0空間
(注 以上の写真は、当日購入した写真から作成したものです。)


聖なる歌   佳月 優


 一見してびっくりしたのがこの絵である。三人のうら若い女性がそれぞれの姿勢で気持ちよく歌っている。ソプラノやアルトの声が耳元で響いてくるようである。しかも、バックがちょっと思いつかない光景である。手前に小さな灌木、中央の女性の後ろにはたぶん山、それから歌声を象徴するように広がり行く雲々・・・うぅーん、誠にシュールな雰囲気ではないか。ただし、決して不気味ではない。それから、実物はといえば、とりわけこの女性たちの服の描写がすばらしい。特に左手の女性のプリーツ地は、よく描かれている。家内は、ボッティチェリの春の女神と雰囲気が似ているという。うぅーん、そうかなぁ。まあ、いずれにせよ、この作品は、特選だった。
水無月の街   菊池治子

 ちょっと真剣な目をした若い女の子が銀座を歩いている。髪を今風に茶色く染め、やや派手めの柄だが落ちついた色のワンピースを着ている。何かを真剣に考えているらしく、顔の表情は厳しいし、足下もまっすぐに行かずに千鳥足風にぶらぶらと歩いている。雨の日という設定も、事の深刻さを象徴しているようである。この絵は、技巧もさほどあるようにも思えず、はっきり言ってあまりうまくもない。ただ、この絵には表面に現れたもの以上に、何かドラマがありそうで、それに惹かれるのである。失恋の直後か、まあそんなところであろう。降ってくる雨も悲しい、そういう状況ではないだろうか。
山古志村之牡牛   米陀 寛


 いや、この牛の力強いの何のって、こういうものが闘牛場に現れたら、さすがの闘牛士も逃げてしまいそうである。力強い顔と角、筋肉隆々の全身、それに牡牛のシンボルなど、いずれをとっても男の中の男、いや雄の中の雄という気がする。周囲の金色と牡牛の焦げ茶も非常にマッチしている。近時、なよなよとした男性ばかり見ていたが、いや、久々にマッチョーの姿を見た。でも牛であることが悲しい。
五月の西秩父   逸見桂一


 とってものんびりとする風景である。これを見て、急に田舎に帰りたくなった人がいるのではないだろうか。秩父は盆地である。あえぎあえぎ山を越して、ふと視界が開けたので下を見ると、そこに秩父の地が悠然と広がっている。手前の木々と向こうの山々は、立体感を醸し出している。たた、原風景を忠実に描き出しているのはいいが、ちょっと不満があるのは全体がモノトーン過ぎるのである。要するに緑と青の世界であるが、手前に色鮮やかな蝶々を舞わせるとかすれば、動きと色彩の両者で鑑賞のポイントになったのにと、残念に思う作品である。
メキシコ暮鐘   中西 敦


 メキシコにあるホテルの窓から大聖堂を見下ろすという設定である。手前の窓枠が作品全体に奥行きを与えていて、良い構図となっている。すぐ前の通りは、酒場でもあるのだろうか、とても賑やかそうで楽しい雰囲気である。その後ろの大聖堂は、ライトアップされていて、荘厳な様子である。私はまだメキシコシティには行ったことがないが、私の頭の中にある海外の国々の記憶とオーバーラップしてきた。中欧の古い国、たとえばチェコの首都プラハに迷い込んだかのごとくである。

朝の調べ   池田清明


 この絵は、実物の方がはるかによろしい。板張りの部屋で朝のバイオリン・レッスンをしている女性の顔の表情、ブラウスとスカートのやわらかな表現がすばらしい。一心にバイオリンを奏でている女性の両手はいまにも動きそうである。背景の粗末な絵の題材とその位置もよいし、横の椅子もじゃまな感じはなくて、いずれも作者によって計算しつくされている。隙のない作品である。その前では、人だかりがしていた。
風のカルテット   渡辺洋子


 工芸品には、二人の像が多いが、これは四人である。いろいろな作品の中には、人形の体つきなどはよろしいが、残念ながらその顔に品がなかったり、あるいは表情が全然ないものもいくつかあった。しかしこのカルテットは、四人それぞれが、個性のある顔つきをしていて、上品である。色とその風を思わす衣装の流麗な線もすてきである。
 ところで、公共の場には彫刻とか塑像が多くて、これよりもっと形が大きい。しかし、こういう大きさの作品はあまり美術館でもお目にかからないし、一体どこにあるのだろう。個人の家やオフィスに置いてあるのだろうか。
0空間   石黒光二


 毎度のことながら、彫刻の部に行くと、私はうんざりするのである。どこを見渡しても、女性の裸、裸のオンパレードで、全くどうにかならないものであろうか。いずれもあまり個性があるとは思えないし、もう裸には飽きてしまった。その中で唯一、私の気を引いたのは、この作品である。大きなゼロを描いた縦の楕円形の中に、女性が体を丸めて引っかかっている。どうだろう、その発想が斬新で良いではないか。もっとも、何のためにこうなっているのか、さっぱりわからないが・・・。





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