This is my essay.











この11月は、どうやら同窓会の季節で、15日には大学のゼミの同窓会があったと思ったら、翌週の18日には大学そのものの同窓会が東京で開かれた。

 まず、前者の大学のゼミの同窓会というのは、考えてみればまことに妙な集まりなのである。というのは、集まった10名のうち4名は私と同級生だから大学時代よりお互いよく知っている間柄であるものの、残る6名は在学中には全く知らなかった。それも当然で、数年先輩やら10数年ほど後輩やらが各年次飛び飛びに集まっているわけだから、そもそも大学時代には知りようがなかったのである。共通するところはただ一点、同じ教授に教えていただいたということにすぎない。

 しかし、その教授も13年前にお亡くなりになっているものだから、本来はこんな集まりはとうの昔に消え失せてしまっていても何ら不思議ではないのである。ところがどういうわけか、私の同期のK弁護士が声をかけてくれると、私などもホイホイと、出かけていきたいという気になっててしまう。そして、皆で神田の学士会館なぞの古くさい部屋に収まり、ナイフとフォークを片手に昔話に花を咲かせ、午後9時に終業だと追い出されるまで、四方山話をして面白がっているという次第である。

 また、この世話役のK弁護士もなかなか心配りをする方で、ちゃーんと部屋の正面にはわれわれの教授の奥様と、その隣にはゼミの一年目の先輩を据えて、この集まりの「正当性」を演出している。まあ、奥様に来ていただいても、こんなおじさん達に囲まれて退屈なのではと思ったりもする。しかし、亡くなった先生の話とか、それにお宅に呼ばれて奥様の手料理をいただいた人もいるし、また音楽の道に進まれたご子息の演奏を聴かせていただいた人も出席しているので、それなりに面白い話題がある。

 また、今回はじめて知ったのだが、先生が早くに亡くなった原因の結核は、学生時代に剣道をやったから感染したのだとのこと。つまり、感染者の使用した剣道の防具を使用したことから、それで自らも感染したのだという。奥様は、「だから、私は今でも剣道が嫌いです」とおっしゃった。こういう話が自然にできるのも、年月が相当に経過したからだろう。

 さて、出席者の話だが、これがいつものように面白い。「仮に、私が卒業時にこういう分野に進んでいたのなら、こうなっていたのかなぁ」などと自分の人生のコースと重ね合わせて考えることができるからだろう。

 まず最年長のNさん、肩書きによるとご自分の名前を冠した会社をやっておられる。卒業後は一流メーカーに就職されたが、家業を継ぐために退職し、それも済ませたあとは、ご自分の会社を興されたとのこと。それで今はというと、ロボットの開発を生涯の趣味にされているという。だいたい、われわれは法学部なので、ロボットと聞いただけで皆の目が点になってしまいそうだったが、Nさんはそんなことを気にせず、ロボット開発計画をとうとうと述べられた。何でも、ホンダがやっているような二足歩行ロボットは非常にむずかしいので、四足歩行つまり、ソニーのようなわんちゃん型ロボットの開発を目指しているとのことだった。成功をぜひお祈りしたい。

 中でも面白かったものを覚えているままにいくつか挙げていくと、まずは、司法研修所の裁判官である。一般に裁判官やら検察官の話は、残念ながらちっとも面白くないというのが相場であるが、この人の場合は、足りない予算の中で、いかに役に立つ企画を作り、講師を呼んでくるかという苦労話を聞かせてもらい、皆で腹をかかえて笑った。

 また、関西から参加してくれたT弁護士の近況も、抱腹絶倒、こんな面白い話は落語に行っても聞けない。何でも、趣味として東南アジアの某国に肩入れしており、もう何十回も訪問して、政府関係者と懇意となった。特に、地雷除去をライフ・ワークとしており、外務省などと掛け合ってちゃんとした地雷処理機が輸出できるようにしたり、その他いろいろな仕事をボランティアでしているとのこと。バイタリティあふれる人である。

 D弁護士は開口一番、今度できる日本版ロースクールの専任教授に就任するとのこと。これには驚いて、「ホーッ」という声が広がる。同じゼミ出身者と二人で、民事訴訟を担当するという。われわれの世界もみずから進んで、時代の最先端に飛び込む人がいる。

 また、役人の世界では、N省の人は、兵庫・篠山町生まれで桂文珍と同郷。それから何かおっしゃったが、桂文珍ばりのだじゃれで、大笑いしたものの、それが何だったか詳しくは忘れてしまった。

 しんがりは、関西から参加した最も若い年次の方であった。M銀行に勤めておられて、今は債権回収のお仕事をされているらしい。債権回収といえば、銀行ではあまり楽しくない仕事の代表格である。お話の端々からは、そこに配属されるまで、何やら事情があったものと思われる。それはともかく、そういう仕事の一方で、プライベートな分野で活躍しようとして、子育てとサッカーの審判員に奮闘しているとのこと。仕事と自分の生活とのバランスが人生だから、その気持ち、よくわかった。

 ということで、いろいろな分野のさまざまな仕事をしている人が、わずか10人集まっただけで、こんなに人生について、笑いつつ、損得を一切離れて考えさせられる機会など、ほかにないのではなかろうか。

 最後に、後者の大学そのものの同窓会について、ぜひ触れておきたい。これに出ようという気になったのは、もちろん幹事をされている上記のD弁護士のお顔が一瞬、頭の中を横切ったことによることも事実である。しかし実は、心中密かに「くんに会えれば、いいなぁ」と思って出かけたのである。私は、卒業以来、くんには全く会っていないが、学生時代にはいい友達だったし、札幌のお宅にまで出かけてお母様にお世話になったということもあり、「元気でいるかなぁ」と長年、思っていたのである。

 くんは、学生時代から本当に勉強家で、私を含めて周囲から「よくあれほど面白くない本ばっかりを毎日毎日読むものだ」と感心するやら呆れるやら、噂の対象になっていた伝説的人物だった。もっとも、私とごく少数の親しい友人は麻雀とかをつきあったし、ご本人も何やらを見物に行くのが気晴らしだった。その意味ではハードな勉強とのバランスを保っていたのだろう。それはともかく、案の定というかやはりというか、くんは長年の精進が実り、今や母校の教授として大成し、この日は教授陣を代表して挨拶までした。

 元最高裁長官やら検事総長やらの挨拶が続く一連の同窓会の行事が終わり、懇談に移ったので、私は、くんを探しに行った。すると、くんの方が先に私を見つけ、「やあ」と手を挙げてくれた。そこでお互い、「しばらくだなぁ」と肩をたたき合ったのである。昔と同じく、こぼれるような笑顔でわらうくんの方から、「君からもらっている年賀状で、君の写真が載っているのがあったから、最近の容貌はわかっていたよ」と言われた。そこで私も見たままに、「君の方こそ、恩師とそっくりの容貌になったなぁ」と言ったので、くんは「それは勘弁してくれ。恩師と一緒だなんて、何のほめ言葉にもならない」という。それはそうだ、くんごめん。しかし気のせいか、やっぱりよく似ているんだよね。




(平成15年11月30日著)
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