This is my essay.



航空母艦 USS Constellation (CV 64)、米国防省のホームページより
 私は、アメリカのサンディエゴで航空母艦を見学させていただいたことがある。その経緯や経験はなかなかおもしろかったので、アメリカという国をよりよく知っていただくという意味でも、ここに記録しておきたい。(なお、私は決して防衛関係者でも何でもない。)

 もう20年近くも前の古い話である。私は、アメリカにしばらく滞在することとなったので、まずワシントンに行った。時間に相当の余裕がある日程を組んでいたから、仕事の合間を見つけてはホワイト・ハウスやスミソニアン博物館などを見学していた。ご存知のとおり、スミソニアンをくまなく見るのは結構たいへんなことではあるが、それでもたっぷり週末の二日間もかけて回ると、さすがにもう見尽くしたという気分になる。そこでその余勢をかって、FBIやペンタゴン(国防総省)のツアーにも参加した。これらはアメリカらしくておおらかで、現地に行ってそこで待っていると、一定の人数や時間になれば誰でも案内してくれるのである。各施設を見学していて、いろいろと思うところがあったが、またそれは別の機会に披露することとして、いずれにせよ私はこういうような時間つぶしをしているうちに、ふと思い立ったのである。

 それは、軍事基地か空母を見たいということである。突拍子もないことのように思われるかもしれないが、アメリカの人たちと話をし、こういう風に見て回って気が付いたことは、私は軍事知識に非常に弱いということであった。いや、全く知らないといってもよい。考えてみれば、これは当然のことである。あの悲惨な第二次大戦が終わってからもはや半世紀も経過しており、この間、特にわが国は戦前の反省から軍事的なものを徹底的に避け、憲法第九条をよりどころとして経済面に注力して今日の繁栄を得てきたわけである。この世界に類のない経済的な繁栄は、とりわけ私の親に当たる世代の国民自身の努力の賜物である。しかしそれに加えて国際的な面からみれば、アメリカという誠に強力かつ民主的な同盟国の後ろ盾があったことが大きい。これがあったればこそ、日本は経済面に注力できるという幸運に恵まれていたと思う。
 
 その意味において、私を含めて日本人の大半は軍事知識など全くなくとも、何の支障もなかったのである。ところが、アメリカの人々と話をしていると、別に政府の人間でないごく普通の人々が、ソ連(当時は、まだソ連邦が崩壊する前であった)とのミサイル交渉がどうのこうのと、軍事知識を非常によく知っていて、それを日常の話題にしているのである。私よりやや年輩のアメリカ人は、何よりも自らベトナム戦争に従軍した年代である。詳しいのはそのせいかと思ったら、あまり世代を問わずに、少なくともその当時のアメリカ人は、ごく日常的に軍事上の話題を持ち出して、議論していたのである。これは、まだ若かった私にはいささかショックで(しかし、そうかといって別にいわゆる右翼になったわけではないが)、日本人も世界に出るなら、このような感覚と知識がもう少し必要だなと思った次第である。

 かつて、東芝機械事件というのがあった。最先端の工作機械を法令に違反して輸出したところ、それがソ連潜水艦のスクリューの加工に使われ、西側の潜水艦探知網に支障が出て大問題となったものである。また、日本からソ連に輸出した浮きドックが、空母ミンスクの修理に使われたと指摘された事件もあった。冷戦の最盛期は過ぎていたという事情があったにせよ、このような軍事に関する感覚が少しでもあれば、日本の会社においても、また対応も違っていたことであろう。

 ということで、試しにと思ってワシントンにある対外交流団体を訪れ、趣旨を説明して基地か空母をじっくり見たいといった。すると、申請書類を書いてみよといわれ、それに特になぜ見たいのかを詳しく書き込まなければならなかった。アメリカでは何をするにしても、個別具体的な理由が必要なのである。単に見学をしたいなどという日本人的な曖昧でぼんやりした説明をしたりすると、かえって逆効果となる。いろいろと考えた末に、ちょうどその当時アメリカの水兵の知的レベルが低くなり、また兵器もハイテク化して扱いにくくなってきたという記事が出ていたことを思い出した。それをネタに、兵士の訓練や兵器とその運用のあり方についていかに品質管理をすすめていくことが必要か、その手段はどうかなどにつき、大学への入学申請書もかくやと思うぐらいに、書きに書いた。それを提出して、ホテルで吉報を待ったのである。
 
 2〜3日して、その団体の窓口の女性から連絡があり、ちょっと来て欲しいという。OKかと期待して行ったところ、その女性が言うには、「ペンタゴンに頼んだけれど、ダメだったのよ。でも、私のボスがあなたの説明を読んで面白いと言っていたわ。そして、『ペンタゴンがダメでも、自分のワイフの親友がたまたまサンディエゴの海軍提督の奥さんだから、そのルートで個人的にお願いしてあげる』って。よかったわね。」

 私は、つくづくアメリカという国は面白い国だと思った次第である。こんなわけのわからない日本人に空母を見せようとしている。しかも、正面の官僚機構からはダメでも、筋がよければ奥さんどうしの個人的コネで見せてくれるというのである。私はお礼をいいながら、笑いをかみ殺すのに往生した。アメリカの映画を見ていると、軍の意向に反発して個人的コネで大問題を解決する正義のヒーローが出てくるが、本当にそれが目の前で起こっているのである。これが笑わずにおられようか。

 それとともに、私は、アメリカとは面白い国であるだけでなく、本当に強い国であると思った。正規の手続きはそれはそれでしっかりと機能させていながら、その範疇で処理できない部分では、ちゃんと機知を働かせて処理するのである。こうすることによって、あたかも柔構造の建物が地震に強いように、誠に柔軟で合目的に行動することができ、手早く確実に目の前の課題を解決することができるのである。最近のアメリカは情報技術革命で世界を一歩リードしているが、その成功の要因は、案外このような草の根の柔構造が社会全体に行き渡っているところにあるのかもしれない。

 それはともかく、私はそれからサンディエゴに向かった。ホテルに着くと、その見学を認めるレターが本当に来ていた。それを持って、わくわくしながら指定の時間に港に行った。まるで遊園地に行く子供のような気分である。しかし子供の場合と違うことは、あれほど申込書でほら(?)を吹いた関係もあって、途中で先方にどういう質問をし、こう聞かれたら何を言おうかなどと頭の中で考えなければいけないことであった。

 その空母は、正式には「the aircraft carrier USS Constellation (CV 64) 」という。つまり星座という名前で、当時は主としてインド洋方面で任務についていたようである。その日はたまたま港に停泊中であった。したがって航行中ではないので、航空機の離発着は見せることが出来ないと言われた。その代わりに館内でその映画を見せてもらった。離陸時のパイロットの受ける数Gの衝撃で一瞬失神することもよくあるということも初耳だし、帰艦時のあのゴムひものような装置で絡み取られるのもよくわかった。その関係で甲板に上がって見ると、大きな四角の鉄の固まりが溝の端にあって、それに航空機の足か何かをひっかけて甲板の端まで一気に持っていって揚力をつけさせ、それをテコに離陸するという仕組みである。カタパルトというらしい。これは蒸気の力で動くものであるが、ソ連はこの装置を作ることが技術的にできないので、この種の航空母艦は持てないのだという。そういえば、ソ連のミンスクという航空母艦は、戦闘機を載せないヘリコプター空母ではなかっただろうか。
 それから、航空機の修理部門に連れて行かれた。私が品質管理について興味があると事前に説明していたせいである。そこで担当者の大尉といろいろと話しをした。まず水兵の能力であるが、「ほらこれを見てくれ」といって教科書を渡された。それは、航空機の修理関係の本で、なかなかの内容である。大尉は、「新聞では水兵はまるで馬鹿ばかりだと書いてあったが、うちではこんな難しい内容の教育をしている。馬鹿では務まらない」と言っていた。もっともである。

 航空機は精密な電子部品のかたまりなので、離着陸のたびに何かが壊れる。故障がどこに出たかを調べ、それを確実に修理する必要がある。でなければ実戦に役立たない。そこでどうやっているのかと思ったら、実に軍らしかった。その故障した航空機にコンピューターをつないで、故障個所を特定するのである。そこで、どこの何に故障があるとわかったら、手持ちの部品ロッカーの中から在庫の品を出して、電子部品の詰まった緑のパネル全体をそっくり取り替えてしまう。実に手早くて簡単であるし、間違いが生じようもない。

 考えてみると、アメリカの企業はマニュアル化が得意であり、これはその大きな強みである。私はいろいろなアメリカ人と接してみて、気が付いたことがひとつある。それは、優秀な人は限りなく優秀であるが、あまりその数は多くはないという一方で、その他の大多数の一般の人たちは、のんびりしていて、優秀かといえば、決してそうではないということである。マニュアルは、この二つのグループをつないで立派な仕事をする場合の道具なのである。つまり、ごく少数の優秀な人たちが、たとえ熟練度の低い労働者でも間違いなく仕事がこなせるようにと、あらゆるケースを想定して完璧なマニュアルを作る。労働者がそれに従ってやっている限り、大きな間違いはなく、それなりに立派な仕事ができるというものである。

 たとえば、マクドナルドはその一例である。あれほどの短期間でかくやと思うばかりの出店を行ってきて、なおかつ仕事をきっちりとこなしていけるのは、マニュアルのおかげだと思うのである。お客が来た場合の声のかけ方からはじまって、マニュアルがしっかりと出来ている。もっとも、いつぞや私がマクドナルドに行ったときは、けっさくだった。そのとき私はテニスをしていて、お昼頃になり、何か口に入れたいと思ったのである。一緒にテニスをしていた仲間が8人近くいたので、一人でツカツカとマクドナルドの店に入って行き、女の子にハンバーグを20個、ドリンクを9本注文した。するとそのかわいい女の子は、真顔で「ここで食べますか、それともお持ち帰りになりますか」と聞いたのである。いかにマニュアル通りとはいえ、一人でこんなに一度に食べられるわけがないだろうと思ったことがある。

 話は飛んだが、このアメリカの空母でもそれと同じことで、少数のごく優秀な設計者が作ったシステムを、一般の兵士がマニュアル通り運用しているのである。ただ、これではせっかくの水兵用の教科書を利用する余地がないのではないかと思ったものである。もちろん、それ以外にもいろいろと水兵さんの頭を悩ます問題があるに違いない。そうでもしないと、この故障診断用コンピューターが壊れてしまったら、それでおしまいになってしまう。

 それから、空母の頭脳である管制室に入れてもらった。映画などでいえば、艦長が突っ立ってパイプをくゆらして指示をするような場面に出てくるところである。窓は普通の簡単なガラスなので、核攻撃があったらどうするのかと聞くと、「そのときは大丈夫、ちゃんと放射能を洗い流す装置がある」という。「でも、近くで原爆が爆発したら、こんな簡単なガラスではどうにもならないのではないか」と聞くと、嫌な顔をされた。あまり想像もしたくないことらしい。私だってそうだが、そういうことに限って、事前に考えておく必要がある。

 甲板を一望することができる窓の横にその模型があり、飛行機のミニチュアがいくつか置いてあった。どれもよく使い込んであるとみえて、塗装などは剥げかかっていた。これは何?と聞くと、「離発着の指令は、これを手元に置きながら立体関係を念頭においてやるのだ」という。「このコンピューター時代だというのにえらく原始的ですね」と聞くと、「いやいやこれが一番安全で確実な方法なのだ」という。確かに、甲板を使うのは一機ずつなので、そんな凝ったシステムはいらないのかもしれない。

 次は艦内の作戦室である。どちらかといえば薄暗い部屋となっており、その真ん中にこれも映画と全く同じの大きな透明のガラス(アクリル樹脂かもしれない)があった。そこには、緑色の作戦地図が輝いていた。扉を出て左側には、放射能マークがあり、もちろん立ち入り禁止となっていた。その横をすり抜け、階段を下りていって、食堂に着いた。将校用と水兵用のものがある。水兵さんのものはカフェテリア方式で、いろいろな種類のものがある。驚いたのは、デザートのアイスクリームひとつをとっても、バニラ、オレンジ、シャーベットなど、実にさまざまのチョイスがあることだった。これに比べれば、日本の会社の社員食堂などは、月とすっぽんではないか。

 そうこうしているうちに、かなりの時間がたった。案内してくれた大尉にお礼をいって、この空母に別れを告げた。その後に湾岸戦争があったが、そのときには、この大尉と空母は、どこでどうしていたのだろうか。なお、2000年12月現在では、まだこの空母は実戦配備されている。


(平成12年12月17日著)
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2度目の航空母艦の見学は、こちら。





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