悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



高山春祭りで陣屋前に勢揃いのからくり3屋台




 飛騨高山への旅( 写 真 )は、こちらから。


1.高山春祭りは雨


 前日の高遠城址公園では、絶好の快晴日和で、高遠小彼岸桜と南アルプス連峰を眺めることができ、満足する写真を撮ることができた。そこで、本日は飛騨高山の春祭りもさぞかし・・・と期待していたのだが、そうは幸運は続かないもので、祭りの途中で小雨が降りだしてきて、期待外れに終わった。

 そもそも、午前11時から高山陣屋前の広場で春祭りとして繰り出す11台の屋台(山車)のうち、「からくり人形」のある3台が演技をするというので、とても楽しみにして行った。ところが、雨模様のために急遽繰り上げて午前10時からになってしまったようで、10時半頃に広場に着いたときには、もう3台目の「三番叟」の演技が終わろうとしていた時だった。慌ててカメラを構えたが、果たしてどれだけ撮れたか心もとない。それでも、「神楽台」を先頭に、「三番叟」「石橋台」「龍神台」の4台が勢揃いする雄姿が見られただけでも良しとしよう。その他の屋台は、各町内にあるそれぞれの屋台の車庫(?)に全て帰っていったらしく、並んでいたはずの道路上はもぬけの殻だった。

 せっかく、ツアーで現地滞在5時間の余裕を持たせてくれたのに、このままでは終われないと思って、地図を見ながら11台全ての屋台の車庫を見て回ることにした。幸い、この日は屋台の車庫の扉を全開にしてあり、その前を通りかかると、その姿を写真に収めることができる。中には、その町内の方が親切にも、屋台を背景に写真を撮ってくれるところもあった。


高山祭りの倉庫の屋台


高山祭りの倉庫の屋台


 そういうことで、神楽台(かぐらたい)、三番叟(さんばそう)、麒麟台(きりんたい)、石橋台(しゃっきょうたい)、五台山(ごたいさん)、鳳凰台(ほうおうたい)、恵比寿台(えびすたい)、龍神台(りゅうじんたい)、崑崗台(こんこうたい)、琴高台(きんこうたい)、青龍台(せいりゅうたい)と回ってみた。町内の散らばって置いてあるので、それを行きつ戻りつしながら見て歩いたから、かなり疲れた。その中でも、大國台(だいこくたい)は、お祭りの中心の中橋からはかなり離れたところにある。やっとのことで、その前に来たら、なんと倉庫の扉は閉まっていた。そういえば、春の屋台は12台と聞いていたのに、今年は11台が出るということだったので、ではその出ない1台は、これだったのか。くたびれ損だったかと、徒労感が残る。

 ともあれ、歩き回ったから、疲れも限界にきた。お昼をかなり過ぎたので空腹感を覚えた。そこで、たまたま見つけた飛騨牛ステーキ屋さんに飛び込んで、それを注文した。味噌の味で、いささか塩気が強かったが、十分に美味しかった。街中では、五平餅、串カツ、コロッケ、みたらし団子はもちろん、飛騨牛握りなるものまで売られていたが、そういうものを口にすると無駄に太るから食べないようにしていたので、このステーキで、ようやく元気を取り戻した。


2.神楽台・からくり3屋台

(1)思いがけず写真が


三番叟


 ところが、思いがけないことが起こるものである。帰ってから、撮った写真を整理していると、最初の高山陣屋前からくり人形の演技が結構撮れていたので、我ながら驚いた。というのは、からくり人形の演技が急遽1時間も早まったことから、それを知らない私たちが到着したのはもう終了の15分ほど前で、ほとんど観る時間がなかった。しかも陣屋前広場の端で演技中の3台の屋台からは、相当離れている場所(中橋のたもとに近いところ)で観るほかなく、大勢の人々の頭越しにカメラを構えなければならない。仕方がないので私はカメラの液晶画面のチルト機構を利用し、両手を伸ばしてカメラを構えながらその液晶画面を頼りにシャッターを押すのだけれども、そんな苦しい姿勢では焦点を合わせるどころではない。しかも困ったことに、液晶画面に光が反射してよく見えない。こんな悪条件にもかかわらず、それなりの写真が撮れていたから、びっくりしたのである。これというのも、タムロンの望遠レンズとキヤノンのデジタル一眼レフのおかげである。

石橋台(右)と龍神台(左)


 気を良くしたので、それでは、からくり人形のある3台の屋台について撮った写真と照らし合わせて、少し書き残していきたい。その前に、高山市の観光情報によると、「16世紀後半から17世紀が起源とされる高山祭。高山祭とは春の『山王祭』と秋の『八幡祭』の2つの祭をさす総称で、高山の人々に大切に守り継がれてきました。このうち、高山に春の訪れを告げる『山王祭』は、旧高山城下町南半分の氏神様である日枝神社(山王様)の例祭です。毎年4月14日・15日、祭の舞台となる安川通りの南側・上町には、『山王祭』の屋台組の宝である屋台12台が登場。うち3台がからくり奉納を行うほか、祭行事では賑やかな伝統芸能も繰り広げられます。」とのこと。

(2)神楽台


神楽台


 一連の春の屋台の最初に並ぶ「神楽台」が、高山陣屋前に並ぶ3台の「からくり屋台」に相対する形で中橋を背にして置かれていたので、まずその神楽台についての高山市の解説を見てみよう。それによると、「<沿革>古くから山王祭の神楽、獅子舞を主管し、初めの頃は白木のわくに太鼓をつって二人でかついだものでした。文化年間(1804年〜1818年)、四輪の屋台形にし、嘉永七年(1854年)の大改修により現台形となりました。明治26年(1893年)改修。その後数度の改修が行われています。(嘉永改修) 工匠 谷口延儔(のぶとし)、 彫刻 谷口与鹿(よろく)(明治改修) 工匠 村山民次郎、塗師 田近宇之助、金具 井上芳之助(構造) 屋根無 太鼓昇降 四輪外御所車

 <特色>祭礼に際しては、侍烏帽子(さむらいえぼし)、素襖(すおう)姿の五人の楽人を乗せて獅子舞を付随させ、全屋台に先行します。曲は『場ならし』『高い山』など多数あり、場所により使い分けられます。嘉永の改修のとき、金具に一坪(3.3平方センチメートル)あたり一匁(4グラム)の純金が使用されました。」
ということである。

(3)三番叟


三番叟


 次に、高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち、向かって一番右にある「三番叟」についての高山市の解説によると、次の通りである。「<沿革>宝歴年間(1751〜1764)の創建で、台銘は「恩雀(おんじゃく)」、天明年間(1781〜1789)に翁操りを取り入れ「翁(おきな)台」と改銘、文化三年(1806)に雛鶴(ひなずる)三番叟の謡曲による操り人形に替え、台銘も三番叟となりました。天保八年(1837)、現在の台形に改造され、大正七年と昭和四十一年に大修理が行われました。(天保改造) 工匠 牧野屋忠三郎・彦三郎、(構造)切破風屋根 四輪内板車

 <特色>二十五条の細綱で操るからくりがあります。童形の三番叟人形が所作を演じつつ、機関(からくり)樋の先端へ移行した聯台(れんだい)上の扇子と鈴を持ち、面筥(めんばこ)に顔を伏せ、翁の面を被り、謡曲『浦島(うらしま)』に和して仕舞を演ずるという構成です。屋台曳行順のくじは、必ず『一番』を引くことになっていて、神楽台についで他の屋台に先行する慣例となっています。」


動き出す三番叟屋台


 確かに、三番叟人形は童顔で、これが顔を伏せたかと思うと、いきなりお爺さんの顔になる。だいたい、「三番叟」とは何だろうと大辞林をひもとくと「能の『翁』を、三番叟の部分のみ舞踊化した歌舞伎所作事」とある。意味や背景を書いてくれないと、さっぱりわからない。こういう時は、ウィキペディアの助けを借りるしかない。それをまとめてみると、「三番叟の舞は2段に分かれ、前半の揉ノ段は面を付けず、足拍子を力強く踏み、軽快・活発に舞う。後半の鈴ノ段は黒式尉を付け、鈴を振りながら、荘重かつ飄逸に舞う。その前の翁の舞が天下泰平を祈るのに対して、三番叟の舞は五穀豊穣を寿ぐといわれ、足拍子に農事にかかわる地固めの、鈴ノ段では種まきを思わせる所作があり、豊作祈願の意図がうかがえる。」ということなので、人形の顔の変化は、この2つ段を表しているのだろう。

(4)石橋台


石橋台


 高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち、真ん中の屋台は「石橋台」である。高山市の解説には、「<沿革>宝暦創建説と天明創建説があります。当初から長唄の石橋の操り人形があったため、台名もこれに由来します。弘化―嘉永年間(1844年から1854年)に改修。文久3年(1863年)大改修し、旧台を古川町に譲りました。(文久改修) 設計 村山勘四郎、工匠 畠中久造、彫刻 下段獅子 村山勘四郎、中段彫り龍 浅井一之(かずゆき)、牡丹 中川吉兵衛、見送り 朝鮮の段通(だんつう)、(構造) 切破風屋根 四輪内板車

  <特色>からくり人形は長唄石橋物(しゃっきょうもの)のうち、「英執着獅子(はやぶさしゅうちゃくじし)」を取り入れたものです。濃艶(のうえん)な美女が踊っているうち、狂い獅子に変身し、また元の姿に戻り両手に牡丹の花を持って千秋万歳(せんしゅうばんぜい)と舞い納める構成です。明治25年(1892年)に風紀上よくないと中止されましたが、昭和59年に復活されました。重厚で調和のとれた屋台です。」
とある。


石橋台


  私が見物していたごく僅かな時間でも、すっくと立つ絶世の美女の人形が、蒼顔の狂い獅子に変身して、体を這わせてぐるぐると回っていた。それにしても、明治期にこれが「風紀上よくないと中止され」たとは、どういうことだろう。そもそも私は「英執着獅子」とは何か知らなかったので、大辞林で調べてみると、「歌舞伎舞踊の一。石橋物の一。長唄。本名題、英執着獅子。初世杵屋弥三郎作曲。前半は手獅子を持って遊女が踊り、後半は、牡丹をあしらった笠を付けて獅子が華麗に舞い納める。」とあったが、ますますわからない。

 それで、更にインターネットの情報をかき集めると、「中国の清涼山という霊山に細い石の橋があり、その向こうは浄土で、人間には渡れない。伝説によると橋の向こうには獅子がいて、牡丹が咲き乱れる中を蝶とたわむれている。それだけでは劇にすると獅子しか出てこないと思ったのか、歌舞伎では女形が前半部分で遊女やお姫様に扮して舞い、後半部分でその女形の衣裳のままで獅子の被り物を被って舞うという。恋する相手に執着する女性として色っぽく舞うから、『執着獅子』という。」とのこと。なるほど、明治の人はそういう知識もあったのかと納得した。

(5)龍神台


龍神台


 最後に、高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち向かって一番左手の「龍神台」についての高山市の解説は、「<沿革>創建年代未詳。安永4年(1775年)に弁財天像に猿楽を舞わせたとの記録があり、文化4年(1807年)の屋台曳順の「龍神」の台名がみえます。またこの頃、竹生島(ちくぶしま)弁財天にちなみ、「竹生島」とも呼ばれました。文化12年(1815年)に改造し、弘化3年(1846年)に修理。明治13年(1880年)から3年がかりで再改造され、唐破風屋根を現在の切破風に替えています。昭和41年、半丸窓上に龍彫刻が取り付けられました。(文化改造) 工匠 谷口紹芳、(明治改修) 工匠 彫刻 谷口宗之、塗師 小谷屋正三郎、(構造) 切破風屋根 四輪内板車

 <特色>32条の糸を操って龍神のはなれからくりが演じれます。これは、竹生島の龍神にちなんだもので、8尺余りの橋樋の先端に、唐子によって運ばれた壷の中から突然赫(あか)ら顔の龍神が紙吹雪をあげて現れ、荒々しく怒り舞うという構成です。見送りは試楽祭には望月玉泉(もちづきぎょくせん)筆の雲龍昇天図、本楽祭は久邇宮(くにのみや)朝彦親王の書で、明治天皇の鳳輦の裂れで表裂されたものを用いています。」
というが、残念ながら、今回はその演技を見る機会がなかった。




3.高山陣屋をじっくり見学


高山陣屋


 そこで、せっかくだから、高山陣屋(かつての高山奉行所)に立ち寄ることにした。前回来たとき(平成29年1月7日)も見学したが、あまり時間がなかったので、じっくりと見て回る暇がなかった。その点、今日は大丈夫だ。江戸時代には全国におよそ60強の奉行所があったが、そのままの建物が現存しているのは、ここ高山のみだというから、これは貴重な文化遺産である。

 今回いただいたパンフレットによれば、「元禄5年(1692)、徳川幕府は飛騨を幕府直轄領としました。それ以来、明治維新に至るまでの177年に25代の代官・郡代が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察などの政務を行いました。御役所・郡代役宅・御蔵等を併せて『高山陣屋』と称します。明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきました。昭和44年に飛騨県事務所が移転したのを機に、岐阜県教育委員会は、全国にただ一つ現存する徳川幕府郡代役所を保存するため、平成8年3月まで三次にわたり、復元修理を行いました。こうして江戸時代の高山陣屋の姿がほぼよみがえりました。」とある。

 高山陣屋のHPに書かれていたことをつなぎ合わせてみたところ、こういうことのようだ。「そもそもこの飛騨は、天正14年(1586年)から金森氏が6代(106年間)にわたり支配してきた地である。ところが幕府は、この飛騨の国が豊富な山林資源(木材)と地下資源(金・銀・銅・鉛)に恵まれていたことから、元禄5年(1692年)に金森氏を出羽国(現在の山形県と秋田県の一部)の上山に国替えさせ、飛騨を幕府が直接支配する「幕府直轄領」(幕府領・幕領)とした。それ以来、幕府支配の出張所(出先機関)として高山に役所が置かれ、それがのちに陣屋と呼ばれるようになった。当初は幕府から飛騨代官が派遣されていたが、安永6年(1777年)には飛騨郡代に昇格し、他の郡代役所(関東・西国・美濃)と並んで幕府の重要な直轄領となった。幕末には全国に60数ヵ所あったと言われている郡代・代官所の中で当時の主要建物が残っているのはこの高山陣屋だけで、全国で唯一、当時の建物が現存する遺跡として、昭和4年(1929)には国史跡に指定された。」


高山陣屋


 天保3年(1832)に建てられたという表門をくぐると、右手には山茱萸(さんしゅゆ)の木があって、一面に黄色い花を付けている。思わず稗搗き節「庭の山茱萸のぉきぃいい、鳴あるうぅ鈴うぅ掛けぇてぇ、ヨーオオーホイ」という歌が頭に浮かぶ。これがそうかと、しげしげと眺めた。秋には茱萸(ぐみ)のような赤い実が生るようだ。(もっとも、「山茱萸の木」ではなく、「山椒の木」という説もある。)

高山陣屋玄関之間


 それから玄関に入るが、藍染の葵の紋の天幕が凛々しくて清々しい。白い砂に波模様が描かれたところを通る。まるで龍安寺の石庭のようだ。通ると、身が引き締まる思いがする。さすが、代官所だけのことはある。文化13年(1816年)の改築以来そのままの「玄関之間」では、「10万石格を示す2間半の大床や、床の壁一面の青海波(波の模様)が目を引く。式台は身分の高い武士が駕籠で乗りつけるため低くしつらえてある」そうだ。

高山陣屋御用場


 廊下を歩いて行くと、「御用場」、つまり地役人の勤務する事務室(35畳)がある。ここで、前捌きをしていたのだろう。黒光りする漆塗りの小さな机と、火鉢が印象的である。次に、郡代、手附が執務を行う部屋の「御役所」(28畳)がある。ここが役所の中枢部という。これらの部屋の縁側のすぐ外には、御白州が広がっている。

 廊下を突き当たって右に曲がる。すると、「寺院詰所」があり、宗門改めのために僧侶が詰めたところらしい。その横に「町年寄、町組頭詰所」があって、これらは御役所の仕事を手助けするために町役人が詰めていたところで、身分が違うために出入口も異なっていた。「湯呑所」があり、部屋の中央部にある囲炉裏が、もはや忘れてしまった日本の伝統を思い起こさせる。「台所」の二つの大きなお釜には、存在感がある。

 「手附・手代の役宅跡」があった。飛騨代官(後に昇格して「郡代」)は、その職務遂行のために直属家臣を伴って着任したが、この家臣を手附・手代といい、その首席を元締と称した。用人部屋、女中部屋、下台所などがある。


高山陣屋下台所


高山陣屋下台所


 郡代が日常生活を送る「御居間」(嵐山之間)は書院造りで、床の間には漢詩の掛け軸が下がっていて、その右側には違い棚がある。私の小さい頃は、こういう床の間や違い棚を備えている住宅が普通だった。床の間には、季節の変わり目になると、父がその季節に合った掛け軸を掛けていたものだし、違い棚には、母が一輪の花を生けていたものである。また、小さな区画があるなと思ったら、「御囲い」という茶室だった。

高山陣屋庭


 濡れ縁越しに、広い庭を一望することができる。庭には、形よい庭木、リズミカルに続いている飛び石、やや遠いもののちゃんとした池がある。江戸時代から、こういう現代に通じるスッキリした庭があったのかと思うと、日本文化も捨てたものではない。腰を下ろして、しばらく庭を眺めていた。心が落ち着く。記録によれば、天明年間に造りかえられて、その後もしばしば手が加えられたそうだ。あまりに居心地が良いからか、どこからか白人の赤ちゃんが這って来たのには驚いた。これがまた、可愛いことといったらない。

高山陣屋で赤ちゃん


高山陣屋大広間


 「大広間」に行くと、三つの広間が繋がっている。やはり書院造りで、向かって左側の床の間には「義」と「孝」の掛け軸が下がっており、右側には違い棚がある。ここは、「書院」といって、儀式、会議、講釈などが行われる場所だった。南のお白州は、刑事事件の取り調べを行う吟味所でぐり石が敷いてあり、拷問の道具である責台、自白を迫る抱き石、罪人を入れる籠などがある。なお、民事関係は、北のお白州で扱ったそうだ。

高山陣屋南のお白州


 年貢米を収納する「御蔵」が大きくて実に立派なので感心した。幕府の支配の根源なのだから、それも当然である。中に入ると、年貢米の俵が壁一杯に積まれていて、1俵には玄米4斗と込米(付加税)1升が入っている。この御蔵は、元禄8年(1695年)に高山城三之丸から移築されたとのこと。創建以来、約400年もの歴史があり、全国でも最古かつ最大の米蔵だそうだ。

 それにしても、これだけ集めた年貢米をどうやって移出するのだろう。地図を見ると、高山を南北に通る宮川というのが流れていて、下流で高原川と合流して神通川となって富山湾に注いでいるから、このルートかもしれない。でも、そんな山奥を年貢米が通って大丈夫か。アメリカ西部で連邦政府の金塊を載せた幌馬車が襲われたように、山賊の類いに襲われないか。幕府は相当な数の警備の者を付けたに違いないなどと、想像が膨らむ。

 陣屋を出ようとして靴を履いていると、中年の白人のご夫婦で、どちらも半ズボンという出で立ちの二人がいた。気温は摂氏7度と低くて、私には凍える寒さだ。そんな格好で寒くないのかと思い、つい、「どこから来たのか、寒くはないのか。」と聞いてしまった。すると、「アイルランドから来た。これぐらいは普通だ。」というので、側にいたイスラエル人ともども、びっくりした。








(平成31年4月14日著)
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