悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



聖ポール天主堂跡




 マカオへの旅( 写 真 )は、こちらから。


1.マカオと香港とを比べると

 マカオの通貨は「パタカ」というが、香港ドルがそのまま使えるし、パタカ本体より流通量が多いのではないかと思う。タクシーやバスの運転手は、広東語しか話さない。英語が全くといって通じないし、日本語のガイドブックにあるカタカナ名を言ってもダメだった。例えば、「セナド広場」と言っても通じない。そこで、手持ちのスマホに保存してある写真を見せて、やっと理解してもらった。また、おつりをくれないので、これは酷いと思ったが、そういうものらしい。試しにバスに乗ってみたら、非常に便利で、地下鉄と違って外の景色が見えるのがよい。こんな狭い坂道をと思う所まで、ずんずんと遠慮なく走っていく。ただし、道は曲がりくねって方向が分かりにくい上に、見慣れない漢字で書かれているから、事前に憶えておかないとなかなか判読できない。事前にダウンロードしたグーグルの地図と、iPhoneのコンパスの組合せがとても役に立った。街中のレストランなどでは、WiFiを無料で提供していた。これは、香港と同じである。


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 食事は、私は広東料理、特に飲茶が好きなので、朝食兼昼食にはほとんどそればかり食べていたが、探せばポルトガル料理もある。また、四川、北京、潮州、客家など中国各地の料理店を見かけて、夕食はそのどれかに入ったが、味はなかなか良い。中には、「東北菜館」というのがあった。これはさすがの私も食べたことがなかったから、試しに入ってみたところ、やはり中国東北部、つまり旧満州の料理で、非常に素朴な味がした(上の料理)。

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 再び飲茶に話を戻すと、マカオ名物の「エッグ・タルト」なるものを勧められたので食べてみたら、これがまた非常に美味しいものだった。要するに、卵を使ったタルトなのだけど、表面に焦げ目が付いていて、それが香りと味を引き出していて、一口噛むと、ジューシイな黄色い卵の黄身がとろりと出て来る。人気だというのも、むべなるかなと思った。時間があれば、その老舗である「マーガレット カフェ・エ・ナタ」に行くつもりだったが、ついに行きそびれた。ついでに申し上げておくと、今どきマカオで流行るものとして、「ハウス・オブ・ダンシング・ウオーター」というショー」がある。私も見てみたいと思ってチケットを購入しようとしたが、年末で混み合っていて、確保できなかった。次に行く機会があれば、再度チャレンジしてみたい。

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 香港と同じくマカオでも、中国本土に返還されてから、不動産価格が高騰し、小さなマンションでもかつては1000万円もしなかったものが、一時は20倍つまり2億円にもなったという。習近平の反腐敗運動で最近の価格は少しは下がったものの、それでも庶民には全く手が届かない状況が続いているという。大枚の現金を持ってやってくる中国人のせいで、ホテルの周りの店は、かつては土産屋が多かったが、それに代わって、今では貴金属屋、不動産屋、高級漢方薬の店ばかりになってしまったとのこと。なるほど、一般大衆から賄賂という形で巻き上げたお金を不動産や貴金属に変えるという点では、香港と全く同じ状況だ。しかし大きく違うのは、ここマカオでは、その収賄中国人からカジノがまた巻き上げている点である。そう思うと、いささか笑えてくる構図である。


2.マカオ歴史地区

 マカオ歴史地区(Historic Centre of Macau )は、世界遺産に登録された建物、広場などが目白押しということで、真っ先に行ってみた。なお、各世界遺産の説明は、マカオ観光局のものが要を得て簡潔なので、以下では、【 】中に青い字でそれを引用させていただいた。ただし、「ですます調」を「である調」に直してある。


(1) セナド広場

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 セナド広場はかなり大きく、足元には波のように優雅にうねった形のタイルが敷いてあり、そこに新年とクリスマスを祝う大きな飾りがあった。それを見下ろすように民政総署が建っていて、その反対側に真っ直ぐ行くと、モンテの砦に繋がる道である。広場の周囲には、土産屋さんが立ち並ぶ。ぶらぶらと歩く観光客でいっぱいだ。その真ん中に立って辺りを見回していると、中国人の観光客から2回も、広東語で道を聞かれて困った。私はそんなに広東人と似ているのだろうか。

【セナド広場は何世紀にもわたってマカオの街の中心であり、現在も公共のイベントや祝典が開催される最も人気のある広場。民政総署や三街会館(関帝廟)のすぐそばという立地は、地元の中国人社会が積極的に行政に関与していたことを物語っており、マカオ文化の多様性を知ることができる。広場はパステルカラーの新古典様式の建物に囲まれており、波形模様の石畳が調和のとれた雰囲気を醸し出している。】

(2) 民政総署


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 民政総署は、入口から中庭まで見学できるようになっていて、いわゆるパティオ形式の中庭にはクリスマスの飾り付けがされている。それでかえって見えなくなっているものの、周囲の窓、青と白を基調としたタイル、ポルトガルの詩人や文豪の胸像などは、いかにも古き良き時代を思い出させる。また、発掘された大皿などの陶磁器が展示されていて、16世紀から17世紀にかけてのものが多い。明王朝との貿易の最盛期だったのだろう。

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【1784年に建築された建物は、マカオ初の市議会所有のものであり、現在もその機能を果たしている。「レアル・セナド」(忠誠なる評議会)という名称は、1654年にポルトガル王ドン・ジョン4世がマカオを褒め称えた言葉「神の名の街マカオ、他に忠誠なるものなき」に由来する。民政総署は新古典様式で、壁、レイアウト、裏庭に至るまで当時のまま残されている。二階には公式行事などで使用される議事室と、ポルトガルのマフラ宮殿の図書館を模した重厚な図書館と、小さなチャペルがある。】

(3) 聖ドミニコ教会


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 聖ドミニコ教会は、明るい黄色の壁に白い枠の装飾が目立つ、実に美しい教会である。中に入ると、小ぶりながらも非常に落ち着いた雰囲気で、正面のイエス・キリスト像が優雅で、しかも脇にひっそり置かれている聖母マリア像が優しい。

【1587年、メキシコのアカプルコから来た3人のドミニコ会スペイン人修道士によって建てられた教会で、ロザリオの聖母が祀られている。1822年9月12日、ここで中国初のポルトガル語の新聞「A Abelha da China (「The China Bee」)」が発刊された。かつて建物の裏手にあった鐘楼は、小さな宗教芸術の博物館として改築され、現在は約300点の宗教的装飾品などを展示している。】

(4) 聖ポール天主堂跡


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 両脇に土産屋さんが並ぶ賑やかな狭い道を上がっていくと、正面に聖ポール天主堂跡が見える階段に繋がる、石畳の小さな広場に出る。観光客、土産屋さんの売り子などが入り乱れて混雑している。中国式ビスケット、干し肉、ジュースに氷水まである。そういえば、歩いてくる途中に、ドリアンまで売られていた。少し心が惹かれたが、猫山王という最高級のブランドに、原産地マレーシアの3倍以上の値が付いている。これは、とんでもない値段だ。こういうことになるから、産地の値段が高騰するわけだ。

 脇道にそれてしまったが、この大聖堂は19世紀に火事で焼けてしまい、正面のファサードだけが焼け残って、それ以来この姿だという。この頃には、イエズス会の宗教的熱狂が薄れてしまったか、あるいはポルトガルとマカオの力が衰えてしまったかで、もはや再建ができなかったのだろう。それも含めて、世界遺産なのかもしれない。

【聖ポール天主堂跡は、1602年から1640年にかけて建設され、1835年に火事で崩壊した聖母教会と教会の隣に建てられた聖ポール大学跡の総称。当時の聖母教会、聖ポール大学およびモンテの砦は全てイエズス会による建築物であり、マカオの「アクロポリス」のような存在だったと考えられている。近くには聖ポール大学の考古学的な遺跡が残っており、細密な教育プログラムを整備した東洋初の西洋式大学であった歴史を物語っている。今日では、聖ポール天主堂跡のファサード(正面壁)はマカオのシンボルとして街の祭壇のような存在となっている。】

(5) モンテの砦

 聖ポール天主堂跡の階段を登って右手の丘に、モンテの砦がある。昔、ここから大砲を放って、侵入してきたオランダ兵を退散させたという。今でも、当時の大砲が残る。

【1617年から1626年にかけてイエズス会の協力のもとに築かれたマカオ最強の防御施設。砦には大砲、軍部宿舎、井戸のほか、2年間の攻撃に耐えうるよう兵器工場や貯蔵庫もあった。砦は台形で、10,000uに及びます。要塞の四隅は防御能力を高めるために突き出すように設計された。】

(6) 媽閣廟


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 セナド広場地区から、最南端の媽閣廟一気に車で行った。着いてみると、ああ、これは仏教のような、道教のような、はたまた儒教のような要素が渾然一体となっている典型的な中国式の寺院である。中に入ると、煙がモクモクとすごくて目が痛くなるくらいだ。それというのも、中国式の線香の長さが30センチほどでしかも太いからだ。人々はそれを何本も抱えて火をつけ、身体の前後に大きく動かして拝む。なるほど、これくらいにしないと、神様に祈りが届かないのかもしれない。中国式の祈りの作法だ。また、大きな渦巻きの蚊取り線香のようなものがたくさんぶら下がっている。これも、神様に捧げるお線香である。

 ちなみに、ポルトガル人が初めて来た時に、この島は何というのかと地元民に尋ねたところ、その地元民がこの寺院の名を訪ねられたと思って媽閣廟(マーゴー)と答えたことから、この地をマカオと呼ぶようになったという説があると聞いた。

【媽閣廟は、マカオの街が形成される以前から存在していた。正門、中国式鳥居と4つのお堂で構成されている。媽閣廟のように単一の建築集合体の中に異なる神を祀る様々なお堂が存在するのは、儒教、道教、仏教および複数の民間信仰の影響を受けた中国文化の典型的な例だと言える。】

(7) 鄭家屋敷


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 鄭家屋敷は、媽閣廟から歩いていける。中国人の文豪にして大富豪の大邸宅である。個人の屋敷としては規模がものすごく大きい。昨年5月に、私はペナンに行って「プラナカン・マンション」という海峡中国人富豪の邸宅を見てきたが、この鄭家屋敷は、それを遥かに上回る規模の建物である。ただ惜しいかな、プラナカン・マンションには当時の家族とその生活を偲ばせるものがたくさんあったが、こちらにはそういうものが全くなくなってしまって、単なるだだっ広いがらんどうである。とても残念なことである。歴史というものは、その価値を認めてこれを守り維持していこうという人がいないと、自ずと消え行くものだということだろう。

【1869年以前に建てられた屋敷は、著名な中国の文豪・鄭観應の伝統的な中国式住居だった。複数の建物と中庭で構成されており、アーチ型の装飾に灰色レンガを使用したり、インド式の真珠貝の窓枠に中国式格子窓が取り付けられるなど、中国と西洋の影響による様式が混在している。】

(8) リラウ広場


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 鄭家屋敷のすぐそばに、リラウ広場がある。単なる小さな公園で、そう言われなければ気が付かないほど普通の佇まいである。実はここは、大航海時代のポルトガル人の水汲み場だったそうで、今でも公園の一角に泉が湧いている。

【その昔、リラウの地下水がマカオの天然水の供給源だった。ポルトガルの言い伝えに「リラウの水を飲んだ者はマカオを決して忘れない」とあり、これはリラウ広場に対する地元民のノスタルジックな想いを表したものである。このエリアはポルトガル人が最初に住み始めた地域の一つである。】

(9) 港務局庁舎


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 港務局庁舎というから、なぜそんな所が世界遺産なのかと思ったが、置かれていた説明書を読むと色々と面白い歴史が書かれていた。昔々、この地をヨーロッパ人の兵士に警備させていたら、この地は熱帯性気候でとても暑くてすぐに病気になってしまう。そこで、総督府は1873年にインドのゴアから暑さに強いムーア人の兵士を呼び寄せて、警備を担わせた。この庁舎は、イスラム教徒である彼ら200人のために、ムガール様式で建てられたという。ところがその後、密輸入や海賊の取締りのために海事警察が設立されて、1872年から取締りが行われるようになると、このムーア人宿舎は小高い所にあって、海峡の監視に都合がよいことから、1905年以降は、海事局と海事警察が使うようになったということである。

【1874年、マカオの警察部隊を補強するためにインド・ゴアから派遣された連隊の宿泊施設として建築された。現在は海事水務局として使用されている。建物はムガール帝国の建築要素を反映した新古典様式の建築。】

(10) ペンニャ教会


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 ペンニャ教会は、港務局庁舎から更に坂を上がった小高い丘の上にあり、とても見晴らしのよい所に立っている、小さくて「可愛い」と言ってもよいくらいの教会である。まるで、宮崎駿監督が描くアニメーション映画の世界に出てきそうだ。

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【最初の教会は1622年にオランダ人の襲撃から逃れた船員たちによって創設された。大海原へと出航する船乗りたちが祈りを捧げた。】

(11) ドン・ペドロ5世劇場


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 ドン・ペドロ5世劇場、通称オペラハウスは、外観が淡い緑色で白い枠が目立つ、いわゆるコロニアル風の美しい建物である。中はもちろん板敷きで、劇場に入ると、舞台客席がコンパクトにまとまっている。再び外に出て正面に回ると、太い幹の大きな熱帯樹がまるで建物を睥睨するかのごとくに枝葉を広げている。なるほどこれは、歴史ある建物である。

【1860年、中国で最初の西洋式劇場として300席を設けて建築された。地元マカオのコミュニティーにおける非常に重要な文化的名所として残っており、現在も重要な公共の催事や祝賀会の会場として使用されている。】


3.マカオタワー


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 マカオタワー(澳門旅遊塔)は、338mと、東京タワーより5m高い。58階の展望台からマカオ湾一帯を見下ろすことができ、対岸のタイパ地区のカジノホテル群、その反対側には中国本土を望むことができる。南灣湖、西灣湖が入り組んで美しい景色を作り出している。とっても良い眺望で、私がこれまで見た中では一番である。

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 びっくりしたのは、バンジージャンプができることで、見ているうちにも何人かが、飛び降りた。しかもその料金が高いことといったらない。4万6000円もする。動画を付ければ5万6000円だ。私などは「それだけの料金を払って怖い思いをするなんて、とんでもない、たとえお金をもらっても嫌だ。」と思うのだが、世の中はわからないものだ。近くにいた若い中国人観光客に聞くと、「お金があればやりたい。自分を試せる。」と語っていた。やはり若いということは、これも含めて何にでもチャレンジできるということなのだろう。展望台の中に、ジャンプする人の姿を映したスクリーンがある。それとは別に、私は、その落ちて行く姿を毎秒7コマ撮れるカメラで追いかけてみたが、そのうち3枚に写っていただけだった。最高時速は200kmらしい。この眺望とバンジージャンプは、一見の価値がある。

【2001年12月19日にオープンしたマカオ・タワーは高さ338m、展望デッキおよび高さ223mの展望レストランから、晴れた日にはマカオ全土と珠江デルタのパノラマが見渡せます。「スカイ・ウォークX」では、タワーの外側を歩いて楽しむことができます。タワーには4階建て地下2階のコンベンション&エンターテイメント・センターがあり、レストランやカフェ、映画館、ショップ、アウトドアプラザがあります。】


4.カジノ


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 マカオといえばカジノが有名で、マカオとその先に2本の高速道路で繋がっているタンパ地区にある。思い出してみると、私がカジノなるものを訪れたのは、40年ほど前のラスヴェガスと30年ほど前のゲンティン・ハイランド(クアラルンプール近郊)であるから、今回のカジノはそれ以来である。しかし、マカオにある現代のカジノは、もうかつての牧歌的なカジノの時代とは全く様変わりしていたので、とても驚いた。つまり、カジノそのものよりも、今ではそれを取り巻く噴水やらイルミネーションやら、果てはヴェネツィアやパリを真似た人工の世界を作り出して、まるでディズニーランドのような世界となっているのである。こうやって夢か現かわからないような非日常の世界を作り出して、ギャンブラーたちにどんどん賭けさせようということらしい。

 今は昔の話になるが、40年ほど前にラスヴェガスに行ったときは、何しろカジノなるものは初めてなものだから、物は試しと、先ずはやってみた。もちろん、素人にとってはやりやすいジャックポットである。コインを入れてガチャンとレバーを引き、目の前で 数字の7とか、林檎とかの同じ模様が横一線に並べば当たりで、 ガチャガチャと音を立ててコインがたくさん落ちて来るという機械である。普通の機械は、横一線に並んだらコインがもらえるという仕組みであるのに、そのときは入れるコインが3個なら、横一線に加えて左右の斜めも並べば、それも当たりという機械だった。私は、これの方が良いと思い、両替したコインを一杯に持って3個入れてはレバーをガチャン、また3個入れてはガチャンを繰り返していたのであるが、全く当たりそうにもない。ついに、残るコインがあと3個となってしまった。ここでまた3個使うと、それでお終いということだ。そこで私は突然、弱気になり、1個ずつ投入することにした。そして1個入れたとたん、なんとまぁ、斜めの線で3個並んだ。つまり、そこで弱気にならずに、もうこれでお終いでも構わないと引き続き強気を保って3個入れておけば、大当たりだったのである。要するにギャンブラーというものは、「最後の最後のコインに至るまで、すっからかんになるつもりで徹底的に賭けをしないと勝てないものだ」と悟った。そこで、「最後の一瞬で手堅く考える自分自身の性格は、ギャンブルには全く向いていないな」と思ったのである。

 次の経験は、30年ほど前のゲンティン・ハイランドでのことである。ここは、住んでいたクアラルンプールから、山の上に向けて1時間半ほど走ったところにあるカジノだ。ゴルフ場や子供の遊園地もあったので、何やかやと年に4回ほど通った。そこで、カジノにも立ち寄り、ごく少しだけ賭けをして、ルーレットやブラック・ジャックなどをやっていた。あるとき、ルーレットを楽しんでいたら、通常はあまり出ない「00」が2回続けて出た。3回目が続くことはさすがにないだろうと思って「00」を避けた。すると、また「00」が来た。これだけでも珍しいのに、驚いたことに次がまた「00」だった。4回も続くなんて、こんなことはまずあり得ないと思うのだが、それが現実に起こったのだ。一般にルーレットは、ディーラーがある程度操作できるということは良く言われていたが、それにしても偶然かどうかは知らないがこれは酷いと、そのときは憤ったものである。しかし、冷静になって考えてみると「こんなことで憤るのでは、ギャンブルはできない。一獲千金を常に追い求める世界なのだから、素人の常識は通じるはずがない。それならそれで、その世界に没入しなければ」と思った。ところが、私は、どこかで自らを客観的に観る傾向があってそういうことができないので、これまた、自分にはギャンブルの才能がないと思い知らされた出来事だった。

 この話には続きがある。あるとき、日本から客人がやってきて、仕事を終えた後の日曜日、カジノを見てみたいという。「ああ、いいですよ」と言って引き受け、飛行機が夕方なので、朝早くゲンティンへと車を運転して連れて行った。着いたのが午前9時前だった。カジノに入ったとたん、そこに同僚がいるのに気がついた。ブラック・ジャックのテーブルで、煙草をくゆらせ、目を血走らせてカードを繰っている。もちろん、周りに誰がいてどうなっているかなどには気が回るはずもない。ひたすらカードを眼をやっているばかりだ。ああ、前日の土曜日から徹夜でやっていたに違いない。普段は大人しい温厚な人なのに、まるで人が変わったみたいだ、「ははぁ、ギャンブルというのは、人柄まで変えてしまうのか。」と思った次第である。それやこれやで、私はカジノとはそもそも性格が合わず、従ってあまり興味を持たずに今まで来ている。いわば、ギャンブルに免疫が出来ているようなものである。


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 ということで、マカオに話を戻すと、今回はカジノに来ても、全くする気がなくて、ただ、カジノの部屋以外の全体像がどうなっているのかと、カメラを片手に見て回ってきたのである。一番感心したのは、「永利(Winn)」の噴水ショーである。テレサテンの甘い歌声に合わせて噴水が踊る。夜にこれを見ると、赤や青の色がついて、いやもう、その派手なことといったらない。ラスヴェガスでも同じことをやっているそうだが、こちらは通り掛かりの人も含めて誰でも見られるし、十分に楽しめる。



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 次に、こんなものがと笑ってしまったのが、「威尼斯人(The Venetian)」内のヴェネツィア運河である。2階のカジノと同じフロアの向かい側に、本当に河を作ってしまって、何と本物を模したゴンドラを浮かべて船頭が乗客を乗せて漕いでいるではないか。そのゴンドラ、運河に架かる橋、船頭さんのスタイルまで、いやもう本物に限りなく似ていて、驚きを通り越して呆れた。まるでディズニー・シーなどの遊園地も顔負けである。同じく、パリの街を模したといわれているのが「巴黎人(The Parisian)」で、エッフェル塔などがある。

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 ちなみに、タイパではなくマカオ本土の方であるが、車で通りかかった「新葡京酒店(Grand Lisboa Hotel )」の形は、派手を通り越して全くの「威容」である。いや、「異様」と言った方が良いかもしれない。何しろ、全体が金づくめ、建物の下の形は繭のようで、上の形はどう表現するか迷うところだが、まるで密教の法具の独鈷を思い出す形だ。聞くところによると、蓮の花をイメージしたということだが、窓拭き屋さんがいかにも苦労しそうな建物である。初めて見る人は、びっくりするのは間違いないと思う。かくして、ありとあらゆる人目を惹く仕掛けが凝らされている。まるで人間の欲望の行き着く先を暗示するかのごとくである。でも、見るのは面白い。昔のアメリカ映画「バック・ツー・ザ・フューチャー」のパート2を思い出してしまう。

 ところで、日本にもカジノを作ろうというので、先頃それを認める議員立法が成立した。従来、日本ではカジノが認められて来なかったが、それに類する独自の文化としてパチンコがある。今でもこれに入れあげている人が多いことを思うと、新しくカジノが出来て、それに溺れる人が大勢出ないか心配である。そうならないように慎重な制度設計がされることを、切に願うものである。










(平成30年1月1日著)
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