悠々人生・邯鄲の夢エッセイ








 先日、行きつけの散髪屋さんに行った。私は、いつもママさんに刈ってもらっている。ハサミを動かしながらの話題は、その日の新聞に載っていた、いじめで自殺した中学生の話になった。いじめといえば、このママさんは、東京の杉並に生まれた後、小学校低学年のときに、お父さんが故郷の会津の山間部に帰ってスーパーを始めた。だから、一家でそこへ引っ越したそうだ。すると、現地の小学校の悪童どもから、「お前の店の商品を持って来ないと、遊んでやらない」と言われて盛んにいじめられ、時には、石を投げつけて来たそうだ。それからお父さんの商売の都合で別の町に引っ越したそうだけれども、「もう半世紀以上も経っているけど、あんな嫌な思い出があるから、それ以来、あそこには、もう二度と行っていない。」という。

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 私は、「その気持ちは、よくわかりますよ。私のときも、全く同じだった。小学校低学年のときに、都会の神戸から、いきなり福井県の田舎に引っ越したものだから、『おまえは、ラジオの言葉(標準語)を話すから、生意気だ。』と言われて、徒党を組んだ商店街の子供達に、よくいじめられた。一対一ならともかく、数人で襲ってくるから、どうにもならないよね。だから、あの町には、それ以来、一度も行ってなかったけど、先日、60年ぶりに訪ねてみたんですね。そうすると、神社と山は昔通りだったけれど、そのほかは一変していて、小学校のあった町の中心部がシャッター通り化していたね。もちろん、その商店街の子供だった悪童どもがどうなったか、調べる気もなかった。」という。

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 「それで、ママさんの場合は、助けてくれる友達は、いなかったの?」と聞くと、「私は5人兄弟の4番目だから、お兄さんたちがいてね、助けてくれたの。」と言う。私は、「それは、良かったじゃないの。私の場合はその時は一人っ子だったし、孤立無援だったのだけど、しばらくすると学校で同じ転勤族で標準語をしゃべる友達が2人できて、よく助けてもらった。しかも、そのうちの一人とは、10数年間、文字通り音信不通だったのだけれど、同じ勤務先の研修所で劇的な再会を果たし、しかもその後、机を並べて一緒に仕事をすることが出来た。そういうことで、この人は私にとってはもう、一生の友達となっている。だから、いじめというのも、あながち悪いことばかりではなかったね。」と語った。

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 ママさんは、このいじめられた経験があるものだから、同居している娘夫婦の孫たちには、普段から、「いじめられても、それでやり返すと、憎しみがまた生まれるから、ひたすら我慢しなさい。」と教えていたそうだ。私が、「それはまるで、マタイ福音書の『右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい』と同じだね。」というと、「そうなの。だからある日、問題が起こってね。登校する日の朝になって、男の孫の方が、決まって『お腹が痛い』と言って休むようになったの。身体を見ると、あちこちに痣があってね。」という。

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 「そうしたら、ある日、小学校の教頭先生がやって来られて、『すみません。いじめがありまして、気が付かなくて申し訳ありませんでした。』と言うのよ。何人かのグループに寄ってたかって叩かれていたらしいのよ」。私は、「それは深刻だったね。子供というのは、小さな頃はまだ無慈悲だから、無抵抗なヤツを見ると、安心して更にやっつけにかかるものだからね。人並みに抵抗していたら、また状況は違ったかもしれない。」とコメントした。そのとき、ママさんは、子供に問いただしたそうだ。すると子供は、「だって、おばあちゃんが、こういうときは、抵抗するなって言ったから、僕は何も出来なかったんだよ。」と言ったそうだ。そこでママさんは、「ごめんね。私のせいで。」と謝ったそうな。

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 これは、意外と考えさせられる誠に深遠な問題である。私は、こう思う。おばあちゃん、つまりママさんは、決して間違ったことを言ったわけではない。処世訓として無抵抗でやり過ごすというのも、世の中を渡っていく上では、ひとつの知恵である。ただそれには、その人のいる社会が成熟していて、あまり度が過ぎた悪さが想定されないというような前提がなければならない。ところが、小学校低学年くらいだと、むき出しの暴力がそのまま通用する世界であることが、しばしばある。だから、そういう中で小さな子供にイエス・キリスト並みの行動規範を示しても、少し早過ぎるというものだと思う。

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 ところで、こういういじめは、同質社会の日本だけの現象なのかと思っていたが、決してそうではないようだ。昔の映画だが、「ネヴァーエンディング・ストーリー(1984年)」の冒頭の場面では、主人公の少年バスチアンが自転車に乗った数人の悪童に追い掛けられ、道路のゴミ箱に追い詰められてゴミだらけになるという場面がある。また「ジュマンジ(1995年)」でも、町を代表する靴工場の経営者の息子アランが、やはりいじめっ子たちに殴られ、あざだらけの顔で家に帰ってくる。父親は、相手が数人とは知らずに「いじめっ子など、やっつけてしまえ」と突き放すという場面がある。こういうところは、洋の東西を問わず同じだなぁという気がする。

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 私の場合も、いじめの標的となって、それはそれはひどいものだった。通学途中で何人かの取り囲まれて、殴られる。中心人物の大将と呼ばれる悪童は、身体が大きくて、一対一でもかなわない。ところが、ほかの悪童らは、一人では何も出来ないのに、集団になると群衆心理を発揮して凶暴になるから、始末が悪い。この連中は、なぜ、こんないじめをやるのだろうと思ったことがある。多分、ほかに楽しみがないならなのだろう。ちょうど古代ローマの剣闘士の試合見物のように、危機に面した人の苦悩を楽しんでいるに違いない。人間の原点を見た思いだ。

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 こういう連中を相手に、慰みものにならないためには、私は小さいながらも色々と頭を使った。登下校の最中にやられることが多いから、出会わないように時間をずらすのが基本で、隠れるのも有効だ。出くわしてしまったら、一目散に駆けて逃げる。どうしても逃げられずに、輪になって囲まれてしまったら、そのうち一番弱いヤツの頬を定規か何かではたいて、目を白黒しているうちに走って逃げるとか、まあ色々と小細工をしていた。私なりにしっかりと抵抗して、もし私をいじめたら、それなりにやられるかもしれないと思わせることが抑止力になると、小さいながらも、肌で分かっていたのだろう。生活の知恵というものだ。

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 私の家の近くには、朝鮮の人たちが集落を作って住んでいた。彼らも、言葉は悪いかもしれないが、地元の人には相手にされないアウトサイダーである。私と同じく、いわば、地域社会でのはぐれ者だ。しかし、子供どうしは、屈託もなく遊ぶ。だから私は、帰宅後や休みなどに、よく一緒に遊んだものである。近くに氣比神宮というお宮さんがあり、その裏手には大きな木が立ち並ぶ草茫々の一画があって、目立たない。そこにその友達と枯れ木で小さな小屋のようなものを作り、秘密の隠れ家だといって、そこを中心に一緒に田圃へと出撃し、小鮒やメダカを追いかけていた。その間は、嫌なことや辛いことは忘れることのできる貴重な時間だった。いやもう、当時のことを思うと、懐かしさもあり、いじめや病気と戦う当時の自分の姿を思い出すこともあって、胸がジーンとする。

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 かくして、いじめてくる連中、助けてくれる親友、朝鮮人の遊び仲間などに囲まれて、私は小学校の低学年を過ごした。地理的には、家と学校と氣比神宮と田圃という狭い長方形の中で動いていただけなのだが、人生の教訓を相当部分、ここで学んだのではないかと思っている。たとえば、(1) 親しい友達との友情、(2) 不合理・不条理なものに対する強烈な反発心、(3) 最後の最後まで諦めずに粘る根性、(4) 状況を瞬時に把握してどう動けばよいかという決断力、(5) 人の力量と心理を掴んで強いところを避けて弱いところを攻める判断力などは、平々凡々で何の葛藤もない子供時代を送っていては、まず身につかなかっただろう。そういう意味で、今ではこの悪童連中に感謝しなければならないと思っている。

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 現在では、この種のことが起きれば、学校や教育委員会が目を光らせていて、先の散髪屋のママさんの孫のように、いじめ問題として取り上げてくれる体制になっている。場合によっては、いじめられた子供さんが自殺したりする悲劇が起こりかねないから、それはそれは真剣に対応してくれる。これによって今では、悲惨ないじめ事件は、かなり抑えられていると思う。だから、親の転居で引っ越してきた、かつての私やママさんのような地域社会の異分子がいじめられるようなことは、相当なくなってきていると思っている。それ自体は、誠に結構なことであるし、そうあるべきだと考える。

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 しかしその反面、自分自身のことを振り返ってみると、社会に出てから仕事上で数えきれないほどの交渉事があった。私は、どういう具合に交渉を進めるか緻密に手順を検討するなど、十分に準備して交渉に臨み、最後まで諦めず、徹底的に交渉したものである。たとえば、こちらの強みは何か、どこが譲れない一線か、逆に相手の弱みは何か、どう攻めればよいのか、攻めるだけでは窮鼠猫を噛むになりかねないから相手の逃げ口をどこに作ってやればいいのかなど、色々と考えに考えた。  特に、アメリカとの特許に関する交渉は、長期間にわたる厳しいものだったが、粘りに粘って、我ながら独創的な一発逆転の解決策を見つけて、満足する結果になった。その時に思ったのは、こういう技倆は、生まれながらにして持っているものではない。意図せずにどう見ても苦しい状況に置かれて、苦悩しながら解決策を見いだす過程で身につくものだということである。私の場合は、幼い頃のいじめっ子たちとのやむにやまれぬ対峙が、まさにその試練の場であり、知らず知らずに胆力や対応策を身につける絶好の機会だったのだろうと思う。

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 社会には良い人や利害関係のない人ばかりではないのだから、自分をいじめてくる手合いや手強い交渉相手と、どうやってやり合い、自分自身、家族、友達、それに国益・社益を守るために、いかに行動していくのかということを学ぶのは、人生に必須の事柄だと思う。それには、学校生活を通じて学ぶことはもちろんであるが、それに加えて、できればそういう場面に直面して、自分の頭で実践的な解決策を考え、それなりの苦労をして学ぶことも重要だと考える。そのような観点からすれば、程度問題ではあるが、端から全てのいじめを撲滅するとまで、大人が意気込む必要もないと思う。

 そうではなくて、人間の本性からしてある程度のいじめが生じることは止むを得ないという前提で、いじめっ子に対しては、「いじめられる子の気持ちになってみよ」と諭し、いじめられる子に対しては、「自分の身を守るために、どうすればいいのか、自分で考えてみなさい。」とでも言って、その子が自分で考え出す解決策をとりあえず見守り、万が一の場合には直ちに助け船を出すというのが理想的だと思う。その方が、社会を生き抜く力がつくと考えている。いわば、「可愛い子には、旅をさせよ。」の精神である。







(注)冒頭の写真は新宿御苑の菊花展、本文中の写真は新宿御苑の日本庭園とその周辺、最後の睡蓮の写真は新宿御苑の温室内。



(平成28年11月12日著)
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