悠々人生・邯鄲の夢エッセイ








 北陸への旅( 写 真 )は、こちらから。


1.旅行プラン

 私は、普段、座って日がな1日中、書類を読んだり書きものをするのが日課である。要するに座り仕事なものだから、これまで、地下鉄の駅などで階段を見ても、歩いて登るようなことは、まずなかった。ところが、半年で10キロのダイエットに成功し、更に半年経ってそれが定着して身体が軽くなった。加えて、週2回のハードなテニスで、少しは筋肉が付いたのかもしれない。階段を見たら、進んで登ろうという気が出て来たから、我ながら変わったものだ。そうやって階段を登っていると、身体の隅々にまで力が行き渡る感覚がして、心地よい。

 それで体力が付いたことを実感したので、今年になって全国各地の「お祭り」を見物に行くということを始めた。お祭り見物は、昼から夜にかけての長い時間にわたる上に、知らない土地を歩き回って、かなり体力を使う。体力が乏しかった去年だったら、すぐに音をあげていたはずである。しかし、今は違う。この機会を逃すと、いつ行けるか分からない。そういうことで、4月は木曽の御柱祭り、7月は京都の祇園祭り、8月は青森のねぶた祭りに弘前のねぷた祭りと、深川の富岡八幡宮水掛け祭り、9月は岸和田のだんじり祭り、10月は佐倉の秋祭りという具合に各地へ出かけた。

 そのうちに秋も深まり、お祭りのシーズンが終わりかけてきた。12月2日と3日には秩父祭りがある。これは素晴らしいお祭りだけれども、5年前に行ったことがあるので、どうしても行きたいという気もしない。さて、体力は余っている。どうしたものかと思っていたところに、北陸フリー切符のチラシを見た。北陸新幹線で金沢まで往復できる上に、特急の自由席が乗り降り自由だという。最南端は在来線で福井県の三方まで行くことができる。これを使って、富山県にいる母や妹たちに会うだけでなく、金沢の友だちと久しぶりに会える。

 それだけでなく、さらに南の福井県は、半世紀以上も前に、私が小学校から中学校にかけて住んでいたところである。地図を眺めているうちに、懐かしさがつのってふと行ってみる気になった。この機を逃すと、もう行く機会はまずないだろう。嶺南地方の敦賀には、小学校2年生から4年生までいた。私が標準語を話すことを理由にいじめられもしたが、それよりかつて住んでいた家の近くにあった氣比神宮はまだあるのか、よく小鮒やメダカで遊んだ田圃はどうなっているのだろうかなどと思うと、是非とも行ってみたくなった。

 そこから引っ越した先の福井市は、言葉を理由にいじめられるようなことはなかったし、気候や食事が性に合ったせいか身体の健康を取り戻し、友達もたくさん出来て、楽しいことが多かった。だから福井市には、それ以来、数回、訪ねたことがあり、最近の事情はある程度分かっている。そこで今回は、旧居や市内を見てくるほか、一乗谷の朝倉遺跡を見物することにした。織田信長に滅ぼされた朝倉氏の遺跡は、私が前回訪れたときには、まだ発掘や整備が進んでいなかったので、今回はそれを見る良い機会である。時間があれば、一筆啓上で有名な丸岡城にも行ってみよう。小さいころ、遠足か何かで見学したことがあるから、半世紀ぶりの再訪になる。そういうわけで、旅行プランがまとまった。いわば、北陸感傷旅行というわけである。


2.金沢の割烹料理


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 金沢の友だちに連絡をとると、幸いなことにその日は空いているというので、夕食を共にすることになった。奥様も存じ上げているからご一緒したいと思っていたが、残念ながら他に用があるらしく、旦那さんだけとなった。金曜日の午後に北陸新幹線かがやきで東京を発つと、2時間半でもう金沢に着いた。友達と落ち合い、駅近くの割烹「寿し・地もの酒菜 高崎屋」に入る。つきだしのどじょうの蒲焼き、新鮮な刺身の盛合わせ、香箱蟹、のどぐろ姿焼き、フグの卵巣の粕漬けと舌鼓をうち、食事に夢中になって何を話したか余り覚えていないほどである。いやまあ、ともかく美味しかった。こんな美味しいお店に連れて行ってくれるなんて、友達甲斐があるというものだ。再会を約し、金沢駅で別れた。


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3.敦賀市への旅

 敦賀の氣比神宮( 写 真 )は、こちらから。


 私はそこから、特急で敦賀に向かった。敦賀駅に着き、氣比神宮の脇にある宝来荘グリーンプラザホテルに宿泊した。なぜこちらを選んだかというと、私の昔の家があった場所にごく近いからだ。ホテルの人に、営業を始めてどれくらいかと聞いたところ、もう38年になるが、その前は小林旅館といったそうだ。残念ながら、記憶にない。私がこの近くにいたのは、60年も前だから、止むを得ない。翌朝早くに、まず旧居跡に行ってみた。氣比神宮の南東の角の交差点近くの清水(きよみず)町1丁目だが、住居表示が変わったのか、記憶している場所と番地が違う。でも、たぶんここだろうという所を探し当てたら、瀟洒な家が建っていた。60年前、その裏手には織物工場があって、四六時中ガッチャンガッチャンと音を立てながら織機が動いていた。私はその工場の傍をすり抜けて、山裾まで一面に広がっている田圃の方へと行き、そこでタモで、小鮒、メダカ、オタマジャクシを捕まえては放しということを飽きもせずにやっていたものである。






 ところが、どうだろう。向こうの天筒山の麓の方まで一面に広がっていたはずの田圃が、今や全て住宅地域になっていた。心の中にあったふるさとが、一挙に消えてしまった気がした。やはり、ふるさとというものは、「遠きに有りて想ふもの」なのかもしれない。いささかがっかりしながら、私が通った敦賀南小学校に向かう。今や普通のコンクリートの建物と体育館に、運動場がある。私の頃は木造の建物で、まるで二十四の瞳に出てくる分教場のようなものだった。こちらも、随分な変わりようだが、それでも運動場越しに見える天筒山は、昔の記憶の通りだったので、満足した。それから、氣比神宮の付近を散歩した。私がいた頃は、この神社を遊び場にしていて、池でオニヤンマを追いかけたりしたものだ。池の中にいて、時折真っ赤な腹を見せるイモリが気持ち悪かったなあ・・・。神殿の裏手は鬱蒼とした森で、近くの朝鮮人部落の友達とそこに秘密基地を作って、日が暮れるまで遊んだものだ。しかし、今はそこの木は全て伐採されて、広い駐車場になってしまっている。これも、がっかりした。でも、神域の荘厳な雰囲気は昔のままで、この神社が人々にいかに大事にされてきたかがうかがえる。





 ホテルに預けていた荷物を引き取り、「みなとつるが山車(やま)会館」に行った。氣比神宮の例大祭には6基の山車が出るそうだが、そのうち3基を常設展示している。入って山車を見上げると、まるで京都の祇園祭とそっくりである。ビデオを観せてもらい、画面の両脇に1基づつ山車がある。はて、もう1基はどこにあるのかと思っていたら、何とビデオが終ったと同時に、画面の真ん中が左右に割れて、そこから山車が出てきたのにはびっくりした。なかなか粋な演出である。これらの山車は、戦災で焼けてしまったり、その後ようやく復元したりして、こうして6基があるという。「イヤサー・エッ、エンヤサー・エッ。」という掛け声らしい。私がいた頃にそういう山車が出たことについての記憶はないから、私が敦賀を離れてから復元・復活が行われたものと思われる。山車会館から乗ったタクシーの運転手さんは、女性だった。聞くと、私が通った小学校を卒業したそうだ。それだけでなく、私が「親友のお父さんが国鉄の職員で、官舎にいた」というと、「あら、鉄輪(かなわ)町でしょう。私もあそこにいたのよ。」と言われた。なんと、世間は狭いのか。






4.福井市への旅






 一乗谷朝倉遺跡( 写 真 )は、こちらから。


 さて、敦賀市から特急サンダーバード号で、福井市に向かった。着くと同時に一乗谷朝倉氏遺跡に行くバスの直行便に乗り込んだ。土曜日だというのに、同乗者はわずか4名だ。これでやっていけるのかと心配になる。乗る前にその場にいた京福バスの人に、どこで降りればいいのかと聞いたが、全く要領を得ない。結局iPhoneで検索し、朝倉資料館を通り越して復元町並で降りた。ここには、城下町の武家屋敷が並んでいたところで、出土した礎石の上に土壁の塀や門、そしてごく一部の家屋を復元したものがある。ただ、土塀と門だけを復元した通りが一筋あるだけで、他に見るべきものはない。地元の皆さんが、寸劇を演じたり頑張っていたのは大いに結構なことだ。しかし、そこから2km離れている福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館も含めて、どうもいまひとつである。織田信長からその痕跡が残らないほど徹底的に略奪破壊されたのだから、さもありなんという気がする。





 福井養浩館庭園( 写 真 )は、こちらから。


 福井市の中心部に戻り、養浩館庭園(御泉水屋敷)に行ってみた。こちらは、福井藩主松平家の別邸で、素晴らしい庭園と数寄屋造りの建物である。他の大名庭園と比べて、大きな建物が池に半分せり出すように出ていて、残る半分は砂利の浜のように池の水に接している。建物の中から対岸を見ると、木々が池の水に反射して、実に美しい。池の水も綺麗で、もちろん緋鯉もゆったりとして泳いでいる。ついつい、座って長居したくなる雰囲気だが、次の予定があるので、後ろ髪を引かれるような思いでその場を離れた。






 福井地方裁判所( 写 真 )は、こちらから。


 さて、昔の私の家のあったところは、三の丸町と呼ばれていたが、今は住居表示が変わって「大手」というらしい。たぶんここだろうという場所を何とか探し当てたが、そこは空き地になっていた。私は、そこからお堀まで歩いて行き、その周りを半周して順化小学校に通った。学校の帰りには交差点のはす向かいある裁判所に立ち寄り、友だちとそのスロープで遊んだ記憶がある。その裁判所の建物は、全く同じ姿でそこにあったので、感激した。私は順化小学校を卒業して、その北にある明道中学校に入学し、わずか1年間だけだが、そこに通った。ところが同中学校はちょうど改装中で、全体の写真を撮ることができなかったのは、いささか心残りである。石碑に「自啓 互敬 明朗」とある。校訓であるが、確か私がいた頃には既にあったような記憶がある。特に「自啓」の精神は、今でも持っているつもりだ。校長先生は、「伊藤長右衛門」という風格を感じさせるお名前だったので、よく覚えている。その日は、開花亭の隣の「香爐園」に泊まった。親切で清潔で食事も私の好みで、非常に良い日本旅館である。近くに、グリフィス記念館という幕末から明治にかけてお世話になったお雇い外国人の記念館がある。福井の人は、なかなか義理堅い。






5.丸岡城への旅





 一筆啓上 丸岡城( 写 真 )は、こちらから。


 福井県坂井市の丸岡城に行って、じっくり見物させてもらった。城は、三層建ての天守閣しか残っていないが、壁は白い漆喰壁よりも普通の家のような木の板が目立つ非常に庶民的な小ぶりの城だ。それにしても、観光客が多い。それというのもここ丸岡城は、お城自体もそれなりに知られているが、むしろそれより、城主の本田作左衛門重次が陣中から出した手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」で全国的に有名になった。ちなみに、昔から「仙」というのは女の子のことだろうと想像していたのだけれども、実はそうではなくて、嫡男の仙千代のことで、重次の跡を継いだ本多飛騨守成重をいうそうだ。







 そして町が一筆啓上の短い手紙を募集したところ、全国各地からたくさんの応募があった。それが1993年(平成5年)のことだという。それ以来、今年で24回目を迎えるそうだ。お城に向かう階段の途中にも、一般から募集した短い手紙の大賞その他の入賞作が飾ってあり、中にはホロリとさせられる句やら、思わず頬が緩む句がある。たとえば、「母へ」と題する14歳の男の子の「おべんと、おべんと嬉しいなと歌いながら、僕の嫌いなものばかり詰めるのは、やめてください。」というのは、確かに秀逸である。思わず、笑ってしまった。


6.富山への旅

 さて、富山に行き、一晩、母や妹たちとその家族の皆さん10人ほどに集まっていただき、中華料理屋さんで丸テーブルを囲んだ。わいわいガヤガヤと大いに歓談し、実に楽しく面白い時間を過ごすことができた。中には今年3月に生まれた赤ちゃんもいて、泣かずにちゃんとその場にいてくれて、皆さんのアイドルになっていた。






 富山城 金沢料理( 写 真 )は、こちらから。


 翌朝早く、富山城の写真を撮ってきた。4階建ての天守であるが、実はこれは戦後の建物である。そのHPによれば、「昭和29年に戦災復興事業の完了を機に開催された、富山産業大博覧会の記念建築物として建設されました」とのことで、内部は富山市郷土博物館になっている。朝日を半面に浴びている状態だったので、撮りにくいことこの上ない。でも、お濠の水面に写ったその姿を合わせてみると、それなりに味のある写真となった。





(平成28年10月24日著)
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