邯鄲の夢エッセイ










 両国のシティーコアというところで、「水芸」が披露されるという。かつてテレビで見たことはあるが、実際にこの目で観るのは初めてだ。では、行ってみようという気になった。両国駅で降りると、横綱の額に迎えられる。駅を出て左折し、国技館通りを国技館とは反対側に進む。歩道には、大きな台座の上に銅製の力士像が乗っている。立っている姿もあれば、横綱の土俵入り姿もある。緑青をひいた像なのに、通行人に触られるせいか、出っ張ったお腹のところだけは地の銅色が出ているから面白い。

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 国技館通りをそのまま歩いていき、京葉道路を渡ったところのマンションのようなオフィスビルのような所が会場らしい。その横は、あの回向院だ。そうするとこのシティーコアというのは、旧国技館跡に建てられたものということだ。今は「L」字型に建てられた二つの高いビルと回向院に囲まれた青空スペースで演じられるみたいだ。時間割というものがないので、何が何だかわからないが、とりあえず見物人の中に混じって座る。

 そのうち、司会のお姉さんが出てきて、水芸は1時からだという。それでは、結構時間がある。暇だからインターネットで水芸なるものを調べてみた。すると、「日本古典奇術『水芸』」という大学の紀要があった(愛知江南短期大学39(2010) 河合勝・斎藤修啓の両氏)。それによれば、こういうことらしい。

 日本固有の手品「水芸」は、江戸時代初期の1665年にはもう文献に現れていて、水からくり、水仕掛けなどと呼ばれ、噴水の原理、つまり「水を高い位置から細い管の中を通し、管の先を上に向ける」を利用している。楽屋裏の高いところに水を入れた桶を幾つも置き、そこから樋、竹、金属の管などを通して水を導いて噴出させたという。

 「江戸末期から明治前期にかけて水芸を得意とした手品師は、養老瀧五郎と吉田菊丸である。養老瀧五郎(後の養老瀧翁斎)は、興行ビラに『水の曲』と入れるほど、水芸を得意とした。舞台における水芸の創始者は養老瀧五郎であるといっても過言ではない。一方初代吉田菊丸は水芸と水中早替りを十八番とした。二代目吉田菊丸は明治19年(1886年)に吉田菊五郎と改名し、翌20年には大阪・角座で改名披露興行をおこなったが、舞台全体が水であふれるほどの大掛かりな水芸ショーを繰り広げた。見世物研究家の樋口保美によれば、『裃姿の太夫が出て、下座の “千鳥” や “手まり唄” などのにぎやかな囃子に合わせて、扇子の先や湯飲み茶碗、刀の刃先、花瓶などから太く細く、長く短く、次々と水を出す。最後に後ろの黒幕が切り落とされると、天女姿の美しい女が四、五人宙吊りで登場し、手に持った花束から一斉に水を噴き出す。舞台の前後左右に仕掛けた数百本の管から水しぶきが入り乱れて噴出し、と同時に五色の花火が火炎をあげ、水と火の祭典となって幕となる』。当時の水芸は、噴水の中に蝋燭や松明の火、花火などを取り入れていた。すなわち『陰陽水火の術』である。いずれにしても吉田菊五郎の水芸は、今日の水芸とは一味違う芝居がかりのスペクタクルな水芸であり、口上、お囃子、仕掛け、演技、演出面において、驚くほどの力量を持っていたと推察され」るという。そして、水芸の第一人者となった松旭斎天一が登場する。

 「天一は上海から帰国後の明治13年ごろ独立し、芸名を松旭斎天一と改め、大阪・千日前で旗揚げ興行をした。『明治奇術史』によれば、時期は不明であるが、松旭斎天一は中村一登久から水芸の手ほどきを受けたという。それを示す記録は一切残っていないが、天一の水芸の中にそれを思わせるふしがある。明治 21 年文楽座での興行の水芸図に刀の刃に卵を積み、そこから噴水する絵が描かれている・・・また、明治22年の両国回向院や明治32年の興行ビラに描かれた『陰陽水火の遣い分け』は、まさに一登久のそれと類似する。天一は明治34年7月から38年5月まで、アメリカ、ヨーロッパ巡業を実施したが、このときは火を使わない水芸を演じた。海外巡業で天一の『水芸』と『サムタイ』は欧米人に高く評価された」という。ここに「両国回向院」とあるが、まさにこの場所ではないか。次に、昭和期以降の水芸はというと、

 「昭和20年以降、水芸は二代目松旭斎天勝、松旭斎椿、松旭斎正恵らによって受け継がれた。 しかし、舞台で水芸を披露するには、大がかりな装置と何人かの裏方を必要とする。そのよう な中、藤山新太郎は水芸の装置と道具に画期的な改良を加え、屋内外でも実施できる方法を考 案した。平成9年(1997 年)、土戸直哉(芸名:藤山新太郎)は『水芸の装置及び水芸の道具』 で発明特許を出願した(注)。そして、2009年 7 月北京で開催された第24回FISM世界奇術大会で、 藤山新太郎と東京イリュージョン所属の藤山晃太郎、小林大郎、和田奈月、高橋花子は約2000人の世界のマジシャンの前で、日本の伝統芸『水芸』を披露し、嵐のような拍手を浴びた。」と、ここまで読んだところで、本日の舞台脇の演題と演者に目をやると、『藤山新太郎』とある。ああ、この人ご自身ではないかと、初めて気がついた。それにしても、奇術の種で特許を出願するなんて、誠に斬新なアイデアだが、それは一体、何だろう、種を一般に知られてしまったら、マジックでなくなるではないかとも思う。産業上利用できる技術的思想を保護するものとはいえ、まさかこんなところにも特許制度が活用されているとは知らなかった。結構なことである。


(注) 原文では「発明特許を取得した」としていたが、2020年3月26日、マジックネットワーク代表 中村安夫氏の指摘により、「発明特許を出願した」と訂正した。その理由は、審査請求をしなかったために取下げとみなされたことによる。この点、同氏に御礼を申し上げたい。



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 さて、水芸の舞台が始まった。背の高い紺色の背景に、その藤山新太郎さんらしき見栄えのよい裃姿の年配の方が出てきて、赤い橋の上に座って、まず両袖の行灯から水を出した。それも、ちょっとその上に手をやるとピタッと水が止まったかと思うと、また手を振ると、水が上がる。水と高さは3〜4mはあると思う。意外に高い。背景が紺色だから、よく見える。また、いったん水を止めてから、別の棒を差し掛けると、その棒の先に水の噴出が移っていく。あるいは、掛け合い漫才よろしく、お手伝いの助手の頭からも、水を噴出させたりしている。なかなかコミカルだ。

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 おやおや、若い女性が二人、舞台に出てきて、優雅な身のこなしを見せる。その両手に菖蒲の棒を持っていたかと思うと、その先からも水が噴出している。これは、携帯用の水の噴出器だ。でも、結構な高さの水が上がる。どういう構造になっているのかと思う。やがて、あちこちから水が噴き上がるクライマックスを迎え、背景に色とりどりの布が降りてきて、舞台は終わった。なるほど、これがそうかと感心した。

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 お昼は、せっかく両国に来ているからというので、伊勢ヶ濱系らしい巴潟でちゃんこ鍋を食べたが、量をセーブしたせいか、かなり美味しく食べられた。ただでさえ量が多いのは確かだけれど、味が薄いから、時間をかければ、いくらでも食べられる気もしないではない。

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 最後に、これもせっかくだからと、駅の反対側に回って、江戸東京博物館に立ち寄った。たまたま「浮世絵から写真へ」という特別展示を見た。初期の写真で、鶏卵紙に焼き付けたものがあり、線がくっきりと出ているのに驚嘆した。また、明治の高官の奥方で、日本髪を結っていた写真があったかと思うと、同一人物の鹿鳴館風の洋装写真があり、これがとても良く似合っていて、これにも驚いた。

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 それから常設展も見たが、芝居小屋、日本橋、江戸の模型は昔とほとんど変わらなかった。しかし、戦後の高度成長期の家屋や電気製品の展示が新しくなったようで、ふと見ると、私が子供時代の家電製品などが、なんとまあ、「歴史的文物」として並んでいた。チャンネルを回すタイプの「テレビ」、ご飯を炊く「お釜」、電気ではなく氷で冷やした「氷冷蔵庫」、洗濯槽で洗ったばかりの濡れた洗濯物の水分をローラーで濾しとる「ローラー付きの洗濯機」などだが、親子連れがこれらを「これは一体、何だろうね」と話していているのには参った。もう、私の知っている世界は、もはや完全に過去の歴史的遺物になってしまっているらしい。



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(平成27年10月11日著)
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