邯鄲の夢エッセイ



弘前城公園から見た岩木山




東北三大桜の旅( 写 真 )は、こちらから。

1.プロローグ

 東北地方の三大桜は「北上展勝地」、「角館」、「弘前公園」だという。私も家内も、東京の桜や京都奈良の桜はもう見尽くした感があるから、かねてより東北の桜を是非見てみたかった。ところが前職では多忙な上に東京留守居役の役割があって、旅行どころではなかった。そこで、新しい仕事にも慣れた今年こそは東北さくらの旅を敢行しようと思って、旅行社に頼んでみた。そうすると、ちょうど希望にぴったり当てはまるツアーがあった。それに申し込み、ゴールデンウイークの連休前半に行ってきたのである。家内と初孫(5歳)連れの3人の旅で、日程は、当日変更した分を含めると、こうなっていた。この種のツアーでは珍しく、のんびりした日程である。

 第1日(4月27日) 東京駅発はやて333号(10:28)→北上駅着(13:08)→北上展勝地(北上川遊覧船、桜の散策)→→小岩井農場の上丸牛舎の桜並木→岩木山と小岩井農場の一本桜→鴬宿温泉の長栄館

 第2日(4月28日) 鴬宿温泉発(9:00)田沢湖・刺巻湿原の水芭蕉群生地→田沢湖たつこ像→角館武家屋敷通り→桧内川の桜並木→道の駅鹿角→十和田大湯温泉ホテル鹿角(17:30)→弘前城の夜桜(22:10帰着)

 第3日(4月29日) 十和田大湯温泉発(8:30)→弘前公園→弘前市内のホテルで昼食→青森ベイエリア散策(青函連絡船・八甲田丸)→新青森発はやぶさ28号(16:38)→東京駅着(20:04)


北上展勝地の由来


2.北上展勝地・一本桜

北上川観光遊覧船


 東北新幹線で北上駅に着き、そのままバスに向かう途中、この旅で最初のハプニングが起こる。それは私が片方の肩にキヤノンのカメラEOS70Dが入ったバッグを下げ、左手に孫の手、右手で大きなトランクを引っ張っている途中のことである。孫がうれしくて一回転したそのとき、カメラのバッグが肩からするりと外れて、道のコンクリートに落ちてしまった。気のせいか、小さくガシャンという音がしたように聞こえた。実は肩からバッグが外れたその一瞬、反射的に手を引いて落下を防ごうとしたが、時遅しだった。しかし、地面に完全にぶつかることは防げたような気がした。いずれにせよ、これは困ったと思いながら、バスに乗り込んですぐにカメラを取り出してみた。黒い保護キャップを外したところ、粉々になったガラスの破片が出てきたときには、ああとんでもないことをやってしまったと思った。ところが破片をすべて取り出して良く見たら、壊れたのはレンズの先端に付けてある保護カバーのガラスだけで、レンズやカメラ本体ではなかったのである。キヤノンのレンズとカメラは、よほど丈夫にできているとみえる。すぐその場でiPhoneを使ってアマゾンの通販で注文したら、直径67mm保護カバーの値段は2,972円だった。つまり、これだけの損害で済んだというわけである。不幸中の幸いというか、道のコンクリートの上に落としてこれだけの損害だったのだから、むしろ幸運だったといえる。旅行中も、このカメラでちゃんとした写真を撮れたので、本当に良かった。このカメラの値段は相当高かったが、こういうところにもその値段が反映されているのかもしれない。

珊瑚橋と鯉のぼり


鯉のぼりと桜並木


 ほどなくバスは、北上展勝地に着いた。やや薄曇りの日で、桜見物にはちょうど良い。北上川沿いに2kmにわたって、ずっと桜が植えられている。その起源は古くて、大正10年に開園したそうだ。辺りをのんびり眺めている暇もなく、さっそく観光遊覧船まで連れて行かれて、救命胴衣を着てそれに乗った。北上川の水は比較的綺麗な方で、頬で川面の風を切る感覚が心地よい。川には我々の船と競争するようにボートを漕いでいる人たちがいる。岸辺には桜の木々がどこまでも並んでいる。とても華やかで美しい。大正期にこの地を桜で有名にしようとした発案者の沢藤幸治町長や、それを後押しした原敬などの先人の苦労が偲ばれるというものだ。船で進んで行くと、川の上流の方にある珊瑚橋という特徴ある橋が見えてきた。その手前には、たくさんの鯉のぼりがはためいている。それを見上げていると、トンビのような鳥が空を悠然と飛んでいるのが目に入り、川岸には親子連れが桜の木を背景に川の水で遊んでいる。誠に長閑な風景だ。最初は船に乗るのに心配顔だった孫も、周囲の風景とその移り変わりを楽しんで笑顔が多くなった。船内にいるどの人も微笑み、まるで幸せを絵に描いたような瞬間である。その幸せ一杯の船旅は、何のことはなくわずか20分ほどで終わり、岸に上がった。そこはまるで縁日の雰囲気で、北上コロッケ、餅、焼きそば、ビールなど色々なものを売っている。その間をたくさんの人出がゆっくりと歩き回り、買い食いし、おしゃべりし、ガヤガヤと尽きることがない。負けじと、孫が「ソフトクリームがほしい!」と叫ぶので、後は家内に任せて、私は桜の写真を撮りに行った。蒸気機関車(SL)と除雪車が置いてある。その除雪車はSLから蒸気の供給を受けて動いたそうだ。そこから、川に沿って一面に桜が咲き誇る。前々日に桜の満開を迎えたそうで、風が吹いてきたら、一斉に桜の花びらが散り始めている。河原に大きな原っぱがあるのだが、そこが一面に染井吉野の花びらに覆われて、白っぽいピンクの絨毯を引いたようになっている。まるで一幅の日本画のような、幻想的な風景だ。北上川沿いの桜はもちろん染井吉野で、枝の先に桜の花がこんもりと毬のように付いている。その桜の毬が無数にあり、そうした桜のトンネルの中に私はいる。風が吹くと一面に散る花吹雪の中で、夢中で写真を撮っていた。

桜並木と一面の花びら


小岩井農場の上丸牛舎と岩木山


 再びバスの乗客となり、小岩井農場に向かった。今回は小岩井農場自体に入るのではなく、その上丸牛舎の桜並木を見ようというのだが、北上展勝地が既に満開から2日を過ぎていたから、こちらもそうかと思ったら、まだ二分咲き程度で意外だった。これは農場が標高1000メートルほどの高原にあるからだという。だから、桜を撮るのではなく、牧場のサイロを背景の岩木山とともに撮ってくるしかなかった。その次に行った岩木山と小岩井農場の一本桜も、同様にまだ少ししか咲いていないという状況だった。このシーンは商業写真でもよく撮られていてご存知の方も多いと思うが、晴れた日の真っ青な空の下に、白い雪を被った岩手山を背景として、ピンクの枝垂れ桜が咲き誇るという素敵な構図である。しかし残念ながら、この日は、その3つの要素がどれも、いまひとつだった。ちなみに、なぜ牧場にこんな優雅な桜が一本だけあるのかというと、明治の頃、真夏に牛のための日除けに植えられたそうだ。

岩木山と小岩井農場の一本桜


 その夜は、鴬宿温泉の長栄館に泊まった。夕食は和風であるが、今回は孫を連れて来ているのをつい忘れていた。出された料理中には七輪に火が付いていて、しゃぶしゃぶという趣向のものがあった。孫が面白がって、それにちょこちょこと手を出す。「それは熱いよ」というと、手を引っ込めるけれど、また隣の方に手を出すという調子で落ち着かない。結局、孫の分も含めて火傷しそうな料理を孫から離れた場所に集め、やっと一息ついた。こんな大人向けの食事を孫が食べられるのかと思って観ていたら、いやいやどうして、白いご飯は一膳すべてを平らげ、おかずは子供用ハンバーグ、豚肉、野菜、玉子焼きと、十分に食べた。旅行中だから、食欲があるのは、有難い。料理の後は、お風呂である。この宿は、温泉の掛け流しで量が豊富だという。孫は普段から熱いお風呂は嫌いである。それでも、ちょっと湯船を体験させてあげようと思っていた。しかし案の定、湯船に足を入れたかと思うと、「熱い、こんなの嫌だ」と叫んで飛び出す。幼児は皮膚が薄いし脂肪も付いていないから仕方がないのだが、せっかくの温泉なのだからと、掛け流しのお湯を汲んでザッと掛けたら逃げ回る。それを繰り返してやっと慣れたと思う頃に、再び湯船に入れたのだけど、腰まで浸かったところで、やはり「熱いよーっ!」と叫んで逃げ出してしまった。

3.水芭蕉・角館・たつこ像・弘前夜桜


田沢湖・刺巻湿原の水芭蕉群生地


田沢湖・刺巻湿原の水芭蕉群生地の桟道をどんどん歩く孫(赤いジャンバー姿)


 鴬宿温泉を出発して連れて行ってもらった所が、田沢湖・刺巻湿原の水芭蕉群生地である。関東なら、尾瀬にでも行かない限り見られない風景が、眼前に広がっているので感激した。しかも、ちゃんと尾瀬のような桟道も設けられている。それにしても、水芭蕉というのは、見れば見るほどに可憐な形をしている。小松菜を細くしたごとき緑の葉に囲まれて、手の掌を縦にしたような白い大きな花びらが1枚あり、その中央に円柱形の粒々が集まった花が咲いている。白い掌で、片方だけ包まれているようだ。それを遠くから俯瞰して撮り、あるいは近くで一つ一つの花を近づいて撮り、楽しんでカメラに収めていった。孫は、家内とともに狭い桟道を最初は恐る恐る歩いていたが、そのうち「ここ、おもしろいね」と言って、かなりのスピードで走り始めて、あっという間に2周してしまった。あれあれ、桟道の奥の方には、紫色の片栗(カタクリ)の花が咲いているではないか。これも都会ではなかなかお目にかからない花なので感激し、カメラのファインダー越しにじっと眺めて撮り終えた。ある意味、この水芭蕉も片栗の花も、珍しいという意味では桜より良かったと思う。

田沢湖・刺巻湿原の水芭蕉群生地の片栗の花


田沢湖、たつこ像


 それから田沢湖に向かい、たつこ像を見に行った。群青色の湖面に、金色のたつこ像が輝くように立っている。青と金の対比が実に見事である。その写真を撮っていると、孫が下に降りて行って、歌を歌いながら石拾いをするので気が気でなかった。たつこ姫伝説とは、仙北市のHPによると「田沢湖が田沢潟と呼ばれていた頃、まれにみる美しい娘、辰子がいた。辰子はその美しさと若さを永久に保ちたいものと、密かに大蔵観音に百日百夜の願いをかけた。満願の夜に『北に湧く泉の水を飲めば願いがかなうであろう』とお告げがあった。辰子は、わらびを摘むと言ってひとりで家を出て、院内岳を越え、深い森の道をたどって行くと、苔蒸す岩の間に清い泉があった。喜び、手にすくい飲むと何故かますます喉が渇き、ついに腹ばいになり泉が枯れるほど飲み続けた。時が過ぎ、気がつくと辰子は大きな龍になっていた。龍になった辰子は、田沢潟の主となって湖底深くに沈んでいった。一方、辰子の母は娘の帰りを案じ、田沢潟のほとりに着き、娘が龍になったのを知って悲しみ、松明にした木の尻(薪)を投げ捨てると、それが魚になって泳いでいった。後に国鱒と呼ばれ、田沢湖にしか生息しなかった木の尻鱒という(田澤鳩留尊佛苔薩縁起より)」とのこと。バスガイドさんは、全くこの通りアナウンスしていた。ちなみに、この金色に輝くたつこの像は、元東京芸術大学教授で彫刻家の舟越保武さんによって昭和43年(1968年)年に作られた金箔漆塗り仕上げブロンズ像だという。

角館武家屋敷通りの枝垂れ桜


角館武家屋敷通りの枝垂れ桜


角館武家屋敷通りの枝垂れ桜


 バスが出て、角館(かくのだて)に向かう。駐車場は、桧内川(ひのきないがわ)の桜並木沿いにある。そこから武家屋敷通りへと歩いて行った。すると、背が高くて美しい枝垂れ桜が、屋敷町のあちこちに咲いている。この角館町は、元和元年(1620年)にこの地方の領主であった芦名義勝によって開かれた町だそうだ。三方が山に囲まれており、当時の城(現在の古城山)から南方向に三本の道路を作って造成したという。町の中央の、今の役場がある場所は火除け地で、その北側が武家町、南側が商人町となっている。390年あまりの間、この風景はほとんど変わっていないそうだ。今回は時間がなかったので、武家屋敷と、桧内川の桜並木を少し見物しただけにとどまった。その武家屋敷であるが、角館樺細工伝承館のあたりから素晴らしい枝垂れ桜が咲いている。それはそれは豪華で、東京の六義園の枝垂れ桜どころではない。あれは樹齢60年だから、こちらはその数倍はありそうである。近くのお店で、稲庭うどんを食べた。孫がパクパク食べるくらい美味しい。それから、青柳家の見学をさせていただく。こちらは公称110石取り、実際には200石あったようで、かなり立派な上級武士の武家屋敷である。薬医門から入って見て回り、家の中と庭をぐるりと一周した。武器庫の鎧兜や刀剣類がすごい。庭の手入れは全くされていないが、往時は相当な庭だったことを偲ばせる。それを出て石黒家に入った。こちらは佐竹北家の家臣で財用役や勘定役を務めた家柄で、やや簡素な趣の造りをしている。それから桜並木駐車場に戻った。そこから桧内川の対岸の方を眺めた景色には息を呑んだ。これは、山と木と桜と川が重なって、まさに絶景である。孫はというと、桜はそっちのけで、大きな松の木を見つけてはその下に行き、松ぼっくりを拾うのに精を出していた。

角館武家屋敷通りの枝垂れ桜


角館の桧内川の桜


弘前公園の夜桜・日本最古の染井吉野


 道の駅の鹿角(かづの)に立ち寄ってから、大和田大湯温泉ホテル鹿角に着いた。建てられてから17年の国際興業系のホテルだそうだが、私は食事もそこそこに弘前公園の夜桜見物に出掛けた。片道1時間の長旅だが、行ってみただけのことはあった。弘前では、ねぷた村の駐車場にバスは停まり、弘前中央高校の前から弘前公園の中に入り直進して左折する。しばらく行くと左に日本最古の染井吉野の木があった。一般に染井吉野の樹齢は高々60年といわれているが、この木の樹齢はその倍の120年という。確かに枝を一杯に拡げた貫禄のある老木だった。その前の内堀に囲まれて天守の本丸とされる櫓がある。下乗橋からそれを撮った。白い3層の櫓、その脇のピンクの枝垂れ桜、手前のお堀と桜花で一杯の染井吉野で、これらがライトアップされて、それはそれは美しい。これを見ただけでも、来た甲斐があるというものだ。

弘前公園の夜桜と天守の櫓


弘前公園の夜桜と天守の櫓


4.弘前公園の桜、八甲田丸

弘前公園の桜


弘前公園の桜


弘前公園の桜と天守の櫓


 翌朝、快晴の中、ホテルを出発して、今度は昼間の桜を見るために弘前公園へと向かった。実に良い天気で、空は真っ青に晴れ上がっているから、ピンクの桜と良くマッチするだろうと期待する。天気予報は一時雨だったから、これは大きな違いである。弘前公園に着くと、昨晩と同じ駐車場に停めて同じコースを行く。ものすごい見物人の数だ。その人々を目当てに屋台もたくさん出ている。昨晩のように日本最古の染井吉野の木まで行き、そこで皆と一緒に集合写真を撮った。後でそれを見ると、いつの間にか初孫ちゃんがツアーの旗を持たされていたのには、笑ってしまった。下乗橋から天守の区画に入った。そこはもう、満開の枝垂れ桜で一杯の世界である。染井吉野の世界とは全く違って、枝垂れ桜がこれだけ揃っているのは優美であり、優雅そのものである。ただ園内では、夜中の宴会に備えて場所を取っている人が多くて、いずれも申し合わせたようにブルーシートを敷いている。枝垂れ桜を撮ろうとするとそれらが写り込んでしまうので、撮った写真の出来はあまり良くなかった。ただ、公園の一角に、岩木山が見える広々とした展望台があったから、そこからカメラを構えた。すると、青い空、白い雪をいただく岩木山、手前の二本杉と枝垂れ桜、そしてお堀が1枚に写ったものが撮れて、これは素晴らしい記念の写真になった。北門から出て亀甲橋を渡り、孫の手を引いてお堀の脇を歩いた。すると、周囲の満開の染井吉野の木々から風に吹かれて散り始めた桜の花びらがお堀を埋めて、水面が一面、ピンク色となっている。その桃源郷のような風景は、もう一生忘れられない珠玉の一画面である。

弘前公園の桜と天守の櫓


弘前公園の枝垂れ桜


弘前公園の桜


弘前公園の桜の花びらがお堀を埋める


 ところで、弘前城の堀垣の石組みが崩れて来そうなので、弘前公園の本丸部分が10年がかりの大工事に入るらしい。そのため、天守のように見える「櫓」の建物自体もすぐ近くに動かされるという。この工事で少なくとも本丸部分にある枝垂れ桜も、当然に影響されるらしい。ガイドさんによれば、そういう意味で、今年この満開の枝垂れ桜をこうやって見に行けたのは、実に幸運なことだそうだ。弘前公園からの帰りがけに「ねぷた館」に立ち寄って、館内を見学した。ねぷたの発祥地は「青森、弘前、五所川原のどこですか?」と聞かれた我々観光客の大半が「青森」と答えると、ここ弘前が正解だという。ねぷたの特徴は、青森が立体的、弘前が平面的、五所川原が背が高いのだそうだ。少年時代にゴッホの絵を見て感動し、「わだばゴッホになる」と画家を志した棟方志功のねぷたの絵があった。

弘前ねぷた


棟方志功のねぷたの絵


 バスガイドさんがとんでもないことを言う。「東北三大桜ツアーというのは、今回、皆さん方が行かれたように、北上展勝地、角館そして弘前の桜の東北三大桜を見に行くものです。ところが、さくらの開花時期はお天気次第ですから、そのツアーの時期によっては、ひとつも見られない場合があります。」と。「そんな馬鹿な、それは詐欺に近いではないか」と思ったら、続けて「しかし、皆さんは運が良いです。今回、角館と弘前は満開ですし、北上展勝地の満開は2日前ではありましたが、まだ十分に咲いていましたから。私も長くガイドをやっていますが、こんなにうまくいったツアーは、これが初めてです。」というわけである。もう、喜んで良いのやら、どうなのやら。まあしかし、旅の初めに北上駅でカメラを落としてもほとんど被害がなかった件といい、この三大桜を全て見られた件といい、ともあれラッキーだったと、身の幸運に感謝することにしよう。

八甲田丸


 お昼は青森市内のホテルでバイキングの昼食をとり、それから青森駅に行く人、ねぶたの家ワ・ラッセに行く人、土産物屋のA−FACTORYに行く人、八甲田丸に行く人に分かれた。我々は、孫に海と船を見せてやりたいと、八甲田丸に向かった。いうまでもなく、これは羊蹄丸などとともに、青函連絡船だった船である。実は私は、昭和47年にこの船に乗船したことがある。学生だったから、もちろん二等船室の大部屋だった。冬の寒い時期、日本海という寝台列車で青森駅に早朝に着くと、そこからどういうわけか、乗客が皆、青函連絡船に向かって走っていく。それぞれ重い荷物を抱えて走るのだから異様な風景だった。寒いからかなと思ってのんびり歩いていくと、船に入って理由がよく分かった。なるほど、良い席は皆、先客で占められていた。ところがそれからしばらくして、青函トンネルが出来たため、青函連絡船は昭和63年(1988年)3月13日に廃止された。もう、二度とこの連絡船には乗れないのである。それもあってか、この港に繋留してある記念碑のような八甲田丸の船内には、黄金の日々を思い出される仕掛けが幾つかあった。歴代の船長名簿の掲示、操船室の見学などのほか、青森ワールドという展示があって、昔懐かしい木の林檎箱に入っている国光(こっこう)と紅玉(こうぎょく)があった。どちらも、酸っぱかったなぁという思い出がある。孫に、「この船、楽しかったか?」と聞くと、「ううん、ちっとも」と言う。「どうして」と畳み掛けると、「だって・・・船がちっとも動かないのだもの」という。なるほど、そうかと笑ってしまった。こうして最後はノスタルジックな思いにどっぷりと浸かって新青森駅に行き、今度は近未来を思わす緑色のモダンな車体をしている「はやぶさ」に乗って、東京に帰ったのである。良い旅だった。

昔懐かしい木の林檎箱に入っている国光と紅玉売り








(平成26年4月30日著)
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