悠々人生のエッセイ








 このたび、私は内閣法制局を退職することになり、いよいよその日を迎えた。勤続40年ということになる。私は大学を出てすぐに就職し、それから国家公務員一途に過ごしたので、他の世界とりわけお金を稼ぐ類の職種には就いたことがない。通産省に就職して管理職になる前は、連日明け方まで仕事をして、ほとほと疲れたこともたびたびあった。今の言葉でいうなら過労死してもおかしくないほどだ。しかしその中でも、ちゃんと結婚して二人の子供にも恵まれたのだから、私も若かったのだろう。仕事の多くは欧米の政府や国内の産業界を相手とする交渉事であった。それこそ切った張ったのやりとりを数多く行ったこともあるし、ポリシー・メイキングで何日も徹夜して仲間たちと議論したことも良い思い出だし、東南アジアだが外国に赴任して仕事と人生を楽しんだこともある。大雑把にいうと、40年間のうち最初の20年間はこのような世界に住んでいた。ところが人生が一転したのは、本格的な法律関係の仕事に就いたときのことで、それ以来大まかに言うと残りの20年は内閣法制局という法律の世界の一員となった。

国会


 しかし、その当初は言うに言われぬ苦労をした。何しろ大学を卒業して10数年も法律を勉強していなかったので、恥ずかしながら司法試験で定評のある教科書をすべて買い揃えて一から再び勉強を始めた。憲法、刑法、民法、行政法、商法、刑事訴訟法、民事訴訟法、労働法、知的所有権法、独占禁止法などである。判例を含めてすべてを網羅するのに半年はかかったが、良い勉強になった。それ以来、部内で議論するのも一向に苦にならなくなった。この勉強を通じて、特に憲法については判例が実に豊富になったのに驚いたし、他の法律に関しても実務に就いていろいろと経験したことから、その理解の度合いが学生時代と比べて飛躍的に増したことを実感した。法律というのは、ある意味では経験が物を言う世界なのである。

皇居の二重橋方向


 そういうことで、次第に法律の世界にもなじんでいき、ついに40年間の勤務が終わる頃には、私は「どんな法律の分野も取り扱ったことのある、オールラウンド・プレイヤー」と評された。別にそうした勲章があるわけでもないし、自分でそのような気恥ずかしいことを言ったわけでもない。いかなる分野の法律についても好き嫌いを言わずに、ただその時点で与えられた分野の法律をコツコツと担当していったら、結果的にそうなっただけだと思っている。私としては、なるべくわかりやすくて常識に沿った論理に基づいて仕事をしてきたつもりである。法律というのは、権利を与え、義務を課すことをその本質的内容とする。そうすると、権利を手にする方は喜ぶが、権利を手にできなかった方には不満が残る。他方、義務を課される方には、なぜ自分に義務が課されるのかという不満が残る。これらをその理由から解きほぐして説明して納得してもらわなければならない。その作戦の企画立案などは、極めて遣り甲斐のある知的な仕事だった。部内外の良い仲間に囲まれなければ、決してスムーズには出来ない仕事だった。そういう意味で、上司、同僚、部下の皆さん、それにおつきあいのあった各界の皆さんには、心から感謝を申し上げたい。

日比谷公園角の噴水


 実は、私としては、この辺りでもう法律の仕事は最後とし、退職後は別の分野で社会のためにボランティア的に尽くしていくことになるのだろうなと、漠然と思い描いていた。ところが、退職後ほどなくして、最高裁判所という法律界の本丸で新たなチャレンジをせよとの有難いお言葉をいただいた。身に余る大役であるが、初心に帰りまた心を新たにして、誠実に仕事をしていきたいと思っている。40年目に、文字通り、私の第二の職業人生が始まった。先は長いので、できるだけ運動を心掛けて体調管理を万全にしていきたい。ただ、今までの職場のように繁忙期は午前様になることがしばしばで、しかも仕事上でかなりのプレッシャーを常時感じるという肉体的にも精神的にも厳しい環境ではなくなった。今度の職場は朝夕には定時に出勤して帰宅するという規則的な生活が許されることから、少なくとも肉体的には平常心を保ちやすい環境にある。もちろん、相当な激務ということは間違いないが、これまでのようにコツコツと仕事をしていけば、やっていける自信はある。公正で公平な判断を心掛けて真面目に仕事をしていきたいと思っている。また、ここに至るまでの長い間、私を支えてくれた家内と二人の子供、そして最近家族に加わった二人の孫たちにも、深く感謝をしたい。




(平成25年8月20日著)
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