悠々人生のエッセイ



新宿御苑のハナミズキ





 私はもう還暦を過ぎてしまって、60歳代前半となった。仕事も充実して人生の集大成を迎えていると思うが、その一方、長い人生の過程で自分のこだわってきたポリシーがいくつかあるし、振り返ってみてああすれば良かった、こうすべきだったという反省すべきところも数多くある。また、人のふり見て我がふり直すというものもないわけではない。そうした諸々の点を、「人生のTips」としてとりまとめてみた。そのひとつひとつを思いつくままに順次、ご紹介していきたい


(1) 眼をしっかり守ろう
(2) 正しい情報を見極め
(3) 酒と煙草は控えよう
(4) 日焼けはほどほどに
(5) 耳を大事にすること
(6) 競争社会を生き抜く





 (1) 眼をしっかり守ろう



 生まれつき視力にいささか問題があるという不幸な人はともかくとして、大多数の人は、小学校の頃までは、視力にあまり差がないはずである。ところが、中学校、高校と進むにつれて眼鏡をかける人が増えてきて、大学になると相当数の人が眼鏡をしている。しかし、出来ればなるべく、眼鏡はしない方がよい、つまり裸眼主義を貫くべしというのが、私の生来の持論である。もともと人の眼というのは、柔軟性に富んでいるから、遠くも見れば近くも見るというバランスの良い生活を普段からしていれば、眼鏡に頼る必要はなくなると思う。これまでの経験で間違いなく言えることを2〜3挙げてみよう。まず、読書のときに姿勢が悪い人、特に前かがみになりやすい人は、もう間違いなく近眼になる。私は、子供たちに対して、読書のときは必ず背筋を伸ばし、本から少なくとも30センチ以上は目を離して読むこと、そして絶対に寝床などの不自然な姿勢で読んではいけないこと、それから、読書のときには丈夫な明るさの照明を使うことで、できれば机の上だけでなく部屋全体も明るくしておくことを常に言っておいた。それに加えて、外出時には、なるべく遠くの物を見ること、それも窓辺に緑の木でもあれば、それを見ることをも付け加えた。これで近くの物を見ることによる眼の筋肉の緊張を和らげて、眼の柔軟性を保つことができる。

 私はこれでもって、小学校から大学までの学生時代には、1.5から1.2程度の視力を維持できて、一度も眼鏡の世話にならずに済んだ。またこれを繰り返し教えた私の子供たちは30歳代になったが、いずれも視力は十分で、眼鏡の世話にはなっていない。そういうことで、このポリシーの正しさには自信がある。ところが私は、東京で勤め始めてから、しばらくはよかったのだけれど、30歳代になった頃、ある日突然、視力が落ち始めたのを実感するようになった。何が原因だろうかとつくづく考えてみたところ、通勤電車内で新聞を毎朝読んでいることではないかと思いついた。知り合いの医者に聞いたり本で調べてみたりしたら、どうもその可能性が高い。しかも、医者によれば電車内の読書は、眼に負担がかかって、しばしば乱視になりやすいとのこと。そこで私は、電車内での読書はきっぱりと止めた。すると、視力の低下が治まったのである。

 その一方、私はほとんどの週末に、ゴルフに出かけるようになった。実はゴルフというのは、ティーグランドは緑、もちろんフェアウェィも緑、そしてグリーンも文字通り緑だし、遠くへ飛んでいくボールをしょっちゅう見なければいけないから、これは疲れのたまった眼の視力を癒すには格好のスポーツである。そこでしばらくは視力の一層の低下するようなこともなく、仕事もゴルフも、どちらも視力の心配なしで楽しむことが出来たのである。ところが10年ほど経って、たまたま職場が変わり、大量の文章を常時読むような仕事についた。すると、私の眼は30センチ先にいつも焦点が合うような状態、すなわち近眼状態に陥ってしまった。これは視力を計測しなくとも、自分で分かった。つまりは置かれた環境に適応してしまったのである。案の定、運転免許の書換えに行くと、「あなたの視力はもうぎりぎりのところに来ているので、次回は眼鏡を作ってきてくださいね」と言われてしまった。

 それから3年間、私なりに遠くの方をなるべく見るという努力はしたものの、あまり効果が上がらなかった。それどころか、ゴルフをしていて、こんなことがあったのである。池の真ん中に浮島のようにグリーンがあるショート・ホールにやってきた。175ヤードの距離だ。私がオナーで、先に打つ番である。風は少しアゲインスト気味だから、5番アイアンで安全にいくか、それとも6番アイアンで思い切り打とうかと迷った末、結局6番アイアンを手に取ってスパーンと打った。ところがやはり力が入り、体が先に回転し過ぎて少しフェース面が開いた気がした。ああ、これは少々スライスがかかってしまったが、うまく届いてくれればグリーン上に止まってくれるだろうと思った。ボールは、ピン方向に向かって真っすぐ飛んでいく・・・もう少し左の方へ出ればと思うが・・・何とかなるだろうと期待する。私のボールを見ていた仲間もキャディも、口ぐちに「あ・・・あぁーっ」とカン高い声で叫ぶ。ところが私は、ボールを見失ってしまった・・・いや、ボールが突然見えなくなってしまったのである。そしてすぐに、回りの人は今度は「ああーっ」と悲鳴に近い声を上げたかと思うと、私はボンと地面に当たる音に続いてポチャンという水に落ちる音を聞いた。どうやら、島には届いたものの、手前の池に入れてしまったらしい。

 その日は、曇り空でボールが見にくかったとはいえ、私には、ボールが池に入ったことより、肝心のときに自分のボールが見えなかったことが悔しくてならなかった。私は相当の近眼になっているようだ。仕方がないので、その頃あった運転免許の書換えで眼鏡を作り、それで免許を更新した。次に、その眼鏡をかけてゴルフをしようと練習場に行ってみたものの、眼鏡をしていると頭は痛くなるし、距離感が滅茶苦茶になってしまうしで、どうも私には眼鏡は向いていないと思うようになった。そこで、運転もゴルフもやめ、その代りの運動として、神宮でテニスをやることにした。テニスボールなら、色は黄色いし大きいし、近くで打ち合うから、眼鏡をかける必要は感じないからである。それに、眼鏡なしで日常生活が不便かというと、案外そうでもない。交差点の信号は見えるし、暗いところ以外は人の顔も見分けはつく。何よりも仕事の上で書類や本もちゃんと見えるのである。

 だから私は、今でも眼鏡はしていない。私が50歳代に突入したとき、年をとるので老眼になるだろうから、それと近視とが釣り合ってちょうど良くなるのではと期待していた。ところが、そうは都合よくならなかった。私の同年代の友達にそう言うと、「ああ、老眼になることは確かだが、相変わらず近眼だから遠くも見えない上に、近くもだんだんと見えなくなって目が霞むようになる。つまり遠くも近くもダメになる」と言っていた。幸い、私はまだ近くはしっかりと見えるので、裸眼でも書類や本を読むことには今のところ何の問題もないし、パソコンはもちろんあの画面の小さなiPhoneでも使える。しかし、だんだんと動体視力が落ちてきて、テニスボールを追いかけるのが辛くなった。60数年続けてきた裸眼主義も、そろそろ限界なのかもしれないが、せっかくここまで来たのだから、眼鏡なしのままで可能な限りもう少しやってみることにしよう。




(2012年 5月 3日記)


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新宿御苑のハナミズキ



 (2) 正しい情報を見極め



 裁判官は良心に従ってその職権を行うわけであるが、それ以前の問題として、目の前の情報が本物で正しいものか、そうでない誤ったものかを自らの経験則つまり知識や経験を生かして瞬時に判断しなければならない。まあこれは、どんな職業の人にも当てはまることかもしれないが、ここで誤ってしまうと、それこそ一生を棒に振ることにもなりかねない。今から半世紀ほど前、私が高校生だった頃は、学生運動真っ盛りの時代で、最初は授業妨害程度のかわいいものだった。しかし、次第に先鋭化していき、警察の機動隊に対して火炎瓶を投げたり大学の校舎を占拠したりの乱暴狼藉を働き、ついには革命セクトと称する集団同士で相互に襲撃して殺しあうという事態に発展していった。

 そういう連中に限って、何も知らない新入生に対して格好の良いことを言って勧誘し、気が付いたら火炎瓶を投げさせたりヘルメットをかぶらせてゲバ棒を振り回させたりしているという仕儀になる。私などは馬鹿馬鹿しいと思って、そういう手合いには元より近づかない。しかし当時はそういう人は、むしろ少数派であった。たとえば中学校の同級生でマドンナとして有名だった美少女が、大学に入った直後にこうした勧誘に引っかかってセクトに入り、新宿駅騒乱事件の際にわざわざ上京して線路上で暴れて捕まったというから、あの大人しい楚々とした女性までがと、皆が驚いたものだ。また、こういうこともあった。ある日私は、新聞の社会面を読んでいて、とある指名手配犯の顔写真が目に留まった。過激派同士の衝突で相手を殺してしまった容疑者ということだ。相当に人相が悪いけれど、どこかで見た顔であると思ってその氏名を読んだ瞬間に思い出した。これは高校時代、私のすぐ後ろの席にいた同級生ではないか・・・。彼も、あんな馬鹿馬鹿しい革命話を真に受けて過激セクトに入り、その結果がこれである。1995年末の地下鉄サリン事件などを起こしたオウム真理教に入信した連中も、似たような経緯をたどったに違いない。

 だいたい、日本社会というのは、新聞をはじめとして熱しやすく冷めやすいから、もう明日にも革命が起こるというような記事やデマが飛び交うものだ。よくよく思い出すと、八紘一宇だの鬼畜米英などといって国民を戦争へと誘導した戦前の社会でも、同じようなことが起こった。しかし、情報の入手に制約のあった戦前の世界ならともかく、現在のように色々なソースを通じて世界の情報に接していれば、ちょっと考えただけでそんな馬鹿なということが簡単にわかりそうなものだ。それなのに、抗えない時代の流れと言うものでもあるのだろうか、いざそうした極端な社会的事象に直面すると、全く普通の人でも冷静さを欠いてとんでもない方向に行ってしまうことがあるから、よくよく、気を付けなければならない。たとえば、1973年秋のオイル・ショックのときには、日本がその消費量の8割近くを頼っていた中東の石油が、すべて禁輸対象となってしまった。社会のあらゆるところで、石油が足りなくなるからこれは一大事だとばかりに、産業界、消費者、農協まで巻き込んで国を挙げての大騒ぎとなった。しかし、結果はどうだったかというと、日本は他国より高値で輸入できたので、輸入量そのものは例年とさほど変わらなかった。もっとも、その代りに、翌1974年の全輸入金額の約半分を原油・石油製品が占めることになってしまった。ちなみにこの比率は年々低下していって、2011年は、約20%である。

 2009年秋のリーマン・ショック時にも同じことが起こった。新聞雑誌は経済の大混乱で1930年代と同じ大恐慌が起こり、もう世の中はおしまいだという論調まであった。ところが、世界経済の基本的フレームが変わったわけでもなく、アメリカ政府をはじめ各国政府やIMFも金融秩序の混乱を抑え込もうと大胆な政策を講じていたので、まあ1年もすれば元に戻るだろうと思っていたら、実際そうなった。今だと、ギリシャなどの南欧諸国の財政危機に伴うユーロの動向が、経済界の一大関心事である。特に金融業、輸出入業、製造業の皆さんは、固唾を飲んで見守っている。フランスの大統領がサルコジ氏からオランド氏に代わったら、ユーロの防波堤の機能が弱まり、最終的にはギリシャがユーロ圏からの離脱を余儀なくされると思うが、ポルトガル、スペインまで飛び火することはないと考えている。

 ただ、その私でも、東日本大震災の際の東京電力福島第一原子力発電所の事故に当たっては、これからどうなるか全く見通しがつかなかった。万が一、6つの原子炉と4つの使用済み核燃料貯蔵プールが制御できなくなって一斉に放射能を放出するようになったら、チェルノブイリ事故の何倍もの被害になることは間違いないし、そうなると最悪の場合は東日本一円が住めなくなるおそれがあると一瞬にして思った。それなのに、東京電力も原子力安全・保安院も、一体全体どうして良いのかさっぱりわからないという混乱状態であることが報道を見ただけでもよくわかる。そのとき思ったことだけれど、NHKにしても新聞にしても、このときばかりは報道の姿勢がいつもと逆で、危機を煽るよりもむしろ非常に抑え気味に報じていたのが印象的である。だから私は、それでむしろ恐れを感じてしまった。事実、昼間の放送はごく通り一遍の報道であったが、一般の人があまり見ない深夜午前1時からの放送の方は、非常に怖い内容が多くて、これは珍しく真実を伝えているなと思った次第である。まあ結局この事故は、いうまでもなく消防、自衛隊、東電やその下請けの作業員の皆さんの決死の努力、それにとりわけ危なかった第四号機の使用済み核燃料貯蔵プールについては「ごくごく危ない道を渡りながら、ほとんど信じられないほどの幸運に恵まれて、かろうじて無事だった」などの幸運が重なり(今でも避難されている方々には申し訳ないとは思うものの)、放射能の汚染が極めて限定された範囲にとどまったのである。

 この種の事故は、人間の期待や願望とは全く関係なく、文字通り科学の法則そのままに進行するから、とても恐ろしいところがある。私は若い頃、ジェーン・フォンダ主演のアメリカ映画、チャイナ・シンドロームを見ていた。だから、原子炉というものは冷却機能が失われれば、中の核燃料棒がどろどろに溶けて原子炉格納容器の底を突き破って地球の反対側の中国まで行ってしまうというストーリーの知識はあった。もちろん、地球には核というものがあるから、まさか反対側まで行くということはありえないにしても、原子炉格納容器の底が破れてそこから放射性物質がどんどん漏れる事態が進行していて、それを誰も止められない状況だということが理解できた。だいたい、第四号機の使用済み核燃料貯蔵プールには、その格納容器すらなくて、プールの水が蒸発すれば燃料がむき出しではないか。だから、家内、孫、娘夫婦、息子たちに西の方へ行くことを勧めたのは、あながち間違っていたとは思わない。人間、こういうときには、むしろ安全性を見込んだ大胆な判断が必要なのである。

 まあそういうことで、本物の情報と偽物の情報とを区別し、報道とりわけ新聞のいうことに引きずられないことが大事である。私は大学院の授業で、ふと思って、学生さんたちに「新聞は何%ほど真実を伝えていると思う? 『(1)ほぼ100%、(2)90〜80%台、(3)70〜60%台、(4)およそ半分、(5)いやいやそんなもの3割もない』のどれか」と聞いたら、(2)が結構多いし、(1)も少しいたから、驚いたことがある。私と同じく(5)だと思っていたのは、同年代のシルバー学生さんだけだった。でもこんなことは、誰でもすぐにわかることだ。たとえばあなたが、突然やってきた新聞記者に、自分の家の事情などを包み隠さずなんでもしゃべるものだろうか・・・また、たとえこれが真実ですとしゃべったとしても、家族同士それぞれ別々に話す内容が、必ず食い違うはずだ。被疑者の身柄を拘束して取り調べる権限のある検察官でさえ真実の発見は手こずるのに、そういうことをたった数日いや数時間の取材だけで、どうして真実が書けるというのだろうか・・・そんなことは有り得ないはずである。法科大学院の学生さんともあろうものが、なぜそういう常識を働かせることがないのか、実に不思議だと思ったことがある。そういうことで、ただでさえ頭でっかちになっている学生さんの硬い頭をほぐしていくのも、私の役割だった。



(2012年 5月 3日記)


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新宿御苑のハナミズキ



 (3) 酒と煙草は控えよう



 なんでも、お酒にかかわる遺伝子は2つあり、そのどちらも持っていると、お酒には強い。西洋人に多いタイプだ。そういえば、外国の映画で男も女も、寝る前にウィスキーのダブルを一杯あおってからベッドに入るというシーンをよく見かける。どちらか一方の遺伝子だけだと、お酒は飲めるが、強くはない。しかし、いずれもないと、お酒はまったく飲めずに下戸となる。ちなみに私自身は、別に調べてはいないけれど、たぶん一方しかないのではと思っている。家内は、お酒を少しでも口にしたら顔が真っ赤になって大変であるから、どちらの遺伝子もないものと考えられる。

 私はそれでも、社会に出てから飲む機会が多かったので、ビール瓶にすれば一本、日本酒で一合ぐらいは飲めるようになった。ところが、30歳台に入ってから、東南アジアで勤務したことがあり、そのときは何しろ常時暑い国なので、そういうときにさらに暑苦しくなるお酒など、全く飲みたくなくなった。わずかに、食事の際にワインをたしなむようになっただけで、それ以外はパーティでも何でも、お酒を飲まなくなった。それ以来、日本に帰ってきてからも、よほどのことがない限り、原則としてお酒は飲まないということで通している。

 加えてちょうどその頃、私の仕事の内容そのものが、論理的で細かい法律の条文を扱うという、実に難しい繊細なものとなってしまった。そういうときに、酒などを飲んでいたりすると、細かいところなどはもうどうでもよくなって、どこかで必ずミスや間違いをしてしまうおそれもあった。法律の仕事は酔っ払いの酒飲みにはできないのである。

 しかも、50歳を過ぎてからは、例外的にやむなく飲んだとしても、その日の夜は、早めに寝てもどういうわけか明け方に目が覚めるようになり、そのために飲んだ翌日は1日中眠くて調子が悪いということが重なって、ますます飲まなくなった。だから、失礼ながら宴会などでは飲んだふりをしつつ、料理の方をマイペースでパクパク食べることにしている。昔と違って、さあ飲めなどと無理やり酒を押し付けてくる無粋な人はいなくなったので、助かっている。それでも食事の時のワインだけは例外で、産地と銘柄選びは楽しいし、グラス2杯までは大丈夫である。この程度のワインなら、さほど酔わないし翌日にも持ち越さないから、我ながら不思議だ。

 そういうことで、とりわけ宴会時には、私は常時素面(しらふ)の状態だから、酔っ払いの醜態を目にすることが多い。お酒に酔った人の多くは、大声で笑い、語り、大いに飲み合って、しばらくすると静かになったなと思ったら、もう寝ているという幸せなタイプである。こういう人は、宴会時には手がかからないし、帰りに間違いなく自宅へ届けさえすれば、そもそも取り扱うのに何の苦労もない。しかし、そういう人ばかりではないから問題である。数は多くはないけれど、困ったタイプというのも中にはいる。たとえば、お酒に酔うと眼がすわって訳もなく怒り出す人、しくしく泣き出す人、それに乱暴狼藉を働く人である。若い頃からそういう人たちを見てきているから、あのようには絶対になりたくないと思ってきた。とりわけ、日中は虫も殺さないほどおとなしい人物が、いったんお酒が入ると仕切り板のガラスを蹴破ったりするのを見て、たいへんショックを受けた覚えがある。また、学生時代からの友達で、その人のことは何でも知っているつもりだったのに、あるとき皆で飲みに行ったとき、その人はお酒が入ると泣き上戸になるとわかって、これまた驚いたこともある。目の前でよよと泣き崩れていたのだから、確かだ。普段は決して目にしなかった姿である。奥さんも、知らないのかもしれない。

 そんなことで、私は大勢の宴会よりも、テーブルに少人数で座って食事をするのを好む。そこに美味しいワインと紹興酒でもあれば、最高だ。外国勤務時代には、世界各地のワインがリーズナブルな値段で入手できたから、いろいろと銘柄を調べ、覚え、注文し、試したが、これを通じてかなりの知識を仕入れたものである。我ながら、ソムリエ並みだと密かに思っていたところ、もっと上手をいく人がいた。私と同様に外国勤務中にワインに目覚めて、そのラベルを集めまくり、それだけでは飽き足らなくて、とうとう国際ソムリエの試験に合格してしまった友達がいる。東京駅近くのオアゾの丸善に行けば、そういうときに勉強する厚手の大きな英語の本がある。あんな大量の小難しい内容の知識を丸暗記したそうな・・・それだけでも、尊敬に値する。それに数多の試飲を繰り返し、口頭試験を突破したそうだ。

 そういう友達は稀有の存在で、あとの私の友達の呑兵衛連中は、ただ飲むだけで単なる酔っ払いにすぎない。中には、明け方までかかったそうだが、2人で缶ビールを3ダースも飲んだ人たちがいた。缶ビール1個は350ミリリットルだから、12.6リットルを2人で胃の中に収めた、つまり1人が一晩で6リットルも飲んだことになるが、それだけの液体は一体どこに行ってしまったのかという気がする。人体の驚異といってもよい。まあ、いずれにせよ、お酒はなるべく飲まないようにするというのが、私のポリシーである。

 もうひとつの私のポリシーは、煙草を吸わないということである。20歳になったとき、タバコとはどんなものかと思ってひと箱買ってみたのだが、1か月経っても少しも減らなかったから、そのまま捨ててしまった。煙草はただでさえけむい上に、あの吸ったあとの吸殻の処理と、吸っている途中の煙草の先の火がとても気になったからである。それ以来、煙草は性に合わないと思って手に取る気にもならなくなった。そのうち年月はどんどんと進み、煙草を吸う人は格好が良いという時代から、煙草は健康に悪いという時代に入り、ついに最近では特に受動喫煙は周りの人に迷惑を及ぼすということが知られる時代となり、とうとう交通機関は全面的に禁煙になった。神奈川県などの先進的な県では、受動喫煙防止条例が成立し、病院、学校、劇場、官公庁などでは原則禁煙とし、飲食店、ホテル・旅館、カラオケボックスなどでは禁煙又は分煙を選択するようになった。だから、煙草を吸うのは、もう禁止される時代となったのである。私は、結構、時代の先端を行っていたのかもしれない。

 中には、酒も煙草もやらないで、何の楽しみがあるのかと聞く人がいるかもしれない。20歳台は、麻雀全盛の頃だったので、私も麻雀をよくやり、自分でいうのもなんだけれど、かなり強かった。しかし、30歳台に入って、外国暮らしをしてゴルフを覚えた。それ以来、約20年間、ゴルフに熱中した。毎週末に行っていたから、もう熱狂的といってもよい。しかし、40歳台に入ってハーフで38のスコアを出した頃から次第に熱が冷めてきた。たまたま、研究や本の執筆で忙しくなったこともあって、あんな朝早く起きて1日中拘束されるゴルフが面倒になってきた。そういうときに出会ったのがテニスである。ゴルフはやめて今度はこれに20年ほど熱中した。神宮のテニス・クラブに入り、毎週練習して上手になるのを夢見たものの、残念ながらこれはあまり上達せず、未だにおじさんテニスの域にとどまっている。その合間には、旅行に行くし、写真を撮り、こうやってホームページやブログも作っている。それも仕事をちゃんとやりながらだから、これでも結構、日々忙しいのである。



(2012年 5月 5日記)


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新宿御苑のハナミズキ



 (4) 日焼けはほどほどに



 私の小さい頃には、日焼けをした小麦色の肌は、健康な子供の象徴であった。だから、家でも学校でも、外に出て日焼けすることが大いに奨励されたものである。ちなみにその頃、「ノートルダムのせむし男」というヴィクトル・ユーゴーの小説があって、「ほら、これはクル病といって、日光に当たらないと、こういう体になってしまうのよ」などと脅かされるものだから、日光というものは大事なんだとすっかり信じていた。だから私も、夏休みになると山へ海へと出かけたときはなるべく外にいて、せっせと日焼けをしたものである。日焼けをし過ぎて、おでこや鼻の先、時には背中の皮膚がベロリとはがれたりして、とても痛い思いをしたことも、何回かある。この日焼け信仰というものは、私の子供たちが小さかった頃でも未だに信じられていて、私の家内は、時として1日8時間以上も、幼児だった子供たちを外遊びさせていたものである。だからウチの子たちは、夏でなくとも、もう真っ黒な顔になっていた。

 話は変わるが、今から20数年前に東南アジアで勤務したとき、私はゴルフに夢中になった。コースまで自宅から20分もかからないということもあって、週末になると家内と一緒にフェアウェイをよく歩いていたものである。ゴルフそのものについては、面白いエピソードが多いが、それはまた別の機会に譲ることにして、2年以上にわたって集中的に取り組んだことで腕はそれなりに上がった。しかし、その代わりに顔が真っ黒に日焼けしてしまった。本当に顔が黒いものだから、その結果、日本からやってきたお客さんに、しばしば現地の人と間違えられたくらいである。

 その真っ黒な顔そのものは、日本に帰ってきてひと冬を過ごしたら、ほぼ普通の顔に戻り、日焼けの痕跡はすっかりなくなってしまった。ところがいろいろな研究によると、若いときは日焼けそのものを修復する皮膚の力が働いて、時間が経つとほぼ元通りの顔に戻るものの、実は紫外線による日焼けのダメージは皮膚に蓄積していっている。そして、それは年をとったときに、メラニン色素による顔のシミとして現れてきたり、あるいは皮膚がんとして出てくるというのである。この研究を聞いて困ったなと思って、改めて自分の顔をみると、なんとまあ、シミが結構いくつか出ている。そこで、いつも行く病院の皮膚科で診てもらったところ、若い医者から「ああ、これねぇ・・・日光角化症あるいは老人性色素班です。心配ないですよ」などと、いとも簡単に言われてしまった。「老人性」という言葉が、いささかショックであった。でも、調べてみると、年をとると誰でも自然に出てくるもののようで、健康上は確かにそれほど心配するものではないとのこと。ただし、稀には皮膚がんへと移行することもあり得るらしい。

 そんなことを医者をやっている娘に話したところ、娘によれば、同僚に皮膚がん専門医がいて、その人は、たまたま街を歩いているようなときに、すれ違った通行人の顔に皮膚がんを見つけるということが、年に何回かあるという。それは怖い話だと思って、念のため、築地のがんセンターに電話をした。すると、紹介がなければいけないとか何とか言われたが、そこを何とか是非ともなどとねばってお願いをして、皮膚がん専門医に診てもらった。すると、「いくつかシミはあるけれど、幸いこれらはがんではなく、日光角化症です。でも、どうしても心配なら年に一回ほど来てくれれば、がんになっていないかどうか診ます」と言われた。それでホッと安心してしまい、それ以来、10年近く経つが、2回目の診察には一度も行っていない。のど元過ぎれば熱さ忘れるという諺のとおりで、もはや笑い話の類である。

 それでは日光角化症はなぜ生じるかというと、紫外線による皮膚の日焼けが原因だというのである。特に漁師さんや農家の方など、日光に長時間さらされている職業の方に多いらしい。日光に長時間さらされたという意味では、農林漁業の代わりに私もゴルフに20年ほど「従事」してしまったから、同じようなものである。ちょうどその頃、世界中で使われるフロン類のせいで南極上空のオゾン層の破壊が進み、太陽の有害な紫外線がそのまま地上に到達して人間をはじめとする生物に大きな悪影響をもたらすという研究の結果が公表された。そのため、特にオーストリアとニュージーランドでは、肌に日焼け止めを塗ったり、帽子に日除けを付けたりするようになったという。

 実は私が毎週の運動の種目をゴルフからテニスに変えたのも、前に書いたように単に視力が衰えたということだけではなくて、紫外線対策という意味もあった。神宮には室内テニスコートがあり、日に焼けることなくテニスができるので、もっぱらそちらを使っている。それだけでなく、春から秋にかけて私は、野外へ外出するようなときには、頭にUVカットの帽子を被り、顔に日焼け止めを塗り、長袖のシャツを着るという紫外線対策の完全防備のスタイルで臨むことにしている。東南アジアでの3年間の日焼けというのは、彼の地にはそもそも秋や冬がないから、これは日本でいうと、優に6年分の日焼けに相当するというわけだ。まあこういう話は自分だけ心配していても仕方がないので、ときどきは娘に私の顔を真剣に診てもらって、何か気になるところがあれば、早めに警告してもらうことにした。娘にとっては皮膚がんは専門外ではあるものの、総合病院で勤務していたときには、そういう患者にたびたび出会って、がん専門医に引き合わせたことがあるそうだから、早期でなくともある程度進んでいるがんなら、見つけてくれると期待している。そういうことで、今のところは平穏無事に過ぎている。

 ところで、私が小さい頃に盛んに言われたのは、日光に当たらないとビタミンD不足になり、これがくる病の発症原因になるということである。人間の体はビタミンDを体内で合成できないから、これは食事か日光浴で補うしかない、だから日光を浴びるのは大切だという論理である。ところが、最近は我々の食事の内容が良いから、人間が1日に必要とするビタミンDは、そのほとんどを食事から摂ることができるので、日光は、むかし言われたほどには大切でなくなったようなのである。そんなことを考えて、私の始めた日焼け回避作戦は、やはり正しかったのだと自信を持つようになった。

 ところが、5月7日、AFPから配信されたオーストラリア国立大学のイアン・モーガン教授による最新の研究結果を読んで、私のやってきたその日焼け回避作戦というものは、少し一面的に過ぎたかなと反省するようになった。それは、「東アジアの子供に近視が多いのは日光不足が原因」というものである。それによれば、人間は「日光を浴びると脳内化学物質ドーパミンの放出が促される。このことが、眼球が伸びて目に入った光の焦点が合わなくなることを防ぐ」。だから、屋外に出ずに家の中だけで過ごす子供たちには、近視が多くなるというのである。そして、「若者の10人中9人が近視のシンガポールでは、小学生たちは読書やゲームをしていてほとんど外へは出ない。だから1日に屋外で過ごす時間は、平均でわずか30分であるという。これと比べてオーストラリアの子供たちが屋外で過ごす時間は平均3時間もあって、その結果、ヨーロッパ系の子供たちの近視率はわずか10%である。ちなみに英国の子供たちの近視率は30〜40%で、アフリカではそれがわずかに2〜3%程度とのこと。この傾向は、シンガポールだけでなく、日本、韓国、中国、台湾、香港などの東アジアの都市でも同じだという。そこで同教授は、近視の予防として、通学の時間を含めて2〜3時間、屋外で過ごせばほぼ安全だ」という。

 なるほど、家で勉強やゲームばかりしていると眼が悪くなるということはよく言われていたけれど、一定時間は日光にさらされないと、かえって近視になるとは知らなかった。特に小さい頃は、外遊びは必要なことなのだ。そういわれてみると、これは単に近視の防止というだけでない。そもそも、外で頬に風を感じ、手で土をさわり、足を使って歩き回りかつ走り回るということを通じて、人間としての基礎的な感覚や運動能力を磨くことが出来るのだと思う。ははぁ、なるほど・・・ということは、結果的にウチの子供たちに対する子育て方法は、あれでよかったのかもしれない。ただ、何でも過ぎたるは及ばざるがごとしで、そうはいっても、過度の日焼けは皮膚がんを誘発するから、やはり日焼けはほどほどにしておくべきなのだろう。



(2012年 5月 8日記)


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新宿御苑のハナミズキ



 (5) 耳を大事にすること



 地下鉄に乗って、空いている座席にそろりと座る。すると、次の駅で若者が私の隣にやって来て、ドカッと座った。一瞬、座席のベンチシートが揺れる。ジーンズを履いたその若者は、両耳にイヤホーンを付けており、それが地下鉄内の電車の騒音にも負けないくらいの大きな音を流す。シャカシャカ・シャカ・ジャーン・・・こうなると、私には音楽というより雑音・騒音のたぐいだが、そんなものを外部にも大きく聞こえるほどの大音量で自分の両耳に垂れ流すなんて、どうみても自殺行為だ。それにしても、うるさいなぁと思っていたところ、何と若者はそのままの状態で寝てしまった。自分の耳がますますバカになるではないか・・・。

 1979年にソニーがウォークマンなるものを発売したとき以来、ポータブルな機器のメディアに入れた音楽を持ち運んで歩きながら、両耳のイヤホーンで音楽を聴くというスタイルが定着した。つまり「音楽が持ち運べるようになった」というわけである。メディアこそ、カセットテープ、ミニディスク(MD)、コンパクトディスク(CD)、メモリースティック、内蔵ハードディスク、内蔵メモリと進化してきたものの、ヘッドホンと称してイヤホーンを両耳に突っ込むというスタイルは変わらない。これをソニーが生み出した新しい若者文化だと称賛する声がある。しかし、何にせよプラスの面があれば、その裏には必ず隠れたマイナス面もあるということを忘れてはならない。

 私はウォークマンの発売当初から、こんなことをしていては、聴力が低下して、耳に悪いのではないかと思っていた。もちろん、ちゃんとした研究の結果が別にあったというわけでもなく、これは単なる直観によるものだけれど、一見してそう思い、それからはこんなものを買って耳に付けて音楽を聴こうなどという気は起らなかった。しかし、先ごろテレビを見ていたら、音楽家の千住明さんが私と同じようなことを言っていたので、我が意を得たりという気持ちになった。千住さんは東京藝術大学作曲科卒業であるが、学生時代には同級生のほとんどが通学途中でウォークマンを聴いていたという。ところが彼は、ヘッドホンを常時、両耳に使うというのは、耳に対する負担が大きいからするべきではないとしてウォークマンは使わなかった。それから何十年と経った今でも、千住さんの耳は十分に健康で、作曲のときには大いに役立っている。ところがその頃、ウォークマンを聴いていた友達のほとんどは、例外なく聴力が衰えて、音楽家としての耳の役割をもう果たせなくなっている人が多く、ウォークマンを安易に使ったことを悔いているという。

 だから、地下鉄の車内で私の隣に座ったその若者は、そのうち難聴に悩まされる可能性は高いと思うが、そういう影響が現れるのは、かなり年をとってからであろう。まあこれは、ちょうど日焼けが素敵だと思われていた時代に、わざわざ街の日焼けサロンに行って体も顔もすべて真っ黒に日焼けし、悦に入っていたガングロと呼ばれたお姉さんたちと、共通するところがある。年をとって悔いても、もはや手遅れなのだ。いずれにせよ、家でも外出先でもどこでも、イヤホーンを1日中、両耳に突っ込むという愚行はやめて、もっと自分の耳を大事にした方がよいと思うのである。



(2012年 5月 9日記)


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根津神社のつつじ



 (6) 競争社会を生き抜く



 10数年前から、毎年オフィスに入ってくる新人の様子が、どうも変になったと感じていた。そもそも新人だから、仕事の上で、必ずといってよいほどミスをする。もとより業務内容や人間関係など何にも知らないわけだから、多少のミスは仕方のないことで、ミスをしない方がむしろおかしいのである。そういうときに、私だけでなく誰しもが、上司や先輩から指導され、時にはきつく怒られながら仕事を覚えて一人前になっていったものである。この間、失敗をすればそれを糧にして努力し、同じミスは2度としないと強く心に誓って精進し、分からないことはなりふり構わずに聞き回り、それでようやく一人前になってきたわけである。まあ、誰しもが経験する社会人としての成長の過程というわけだ。

 それが私や私の世代の人間の常識だったのであるが、どうも最近の若者は違うのである。何が違うかというと、叱られると青菜に塩をふりかけたようにシュンとなり、気力が文字通り「へたって」もう2度と回復してこないのだ・・・。あれあれ、叱られたらナニクソと思ってやり直すはずなのに・・・いったい何なんだ、この若者たちは?・・・揃いもそろって温室育ちのボンボンなのか?・・・と言いたくなる。私の同僚に聞いても、いわゆる「打たれ強い」の真反対の「打たれ弱い」部下がとみに増えていて、うっかり叱ると長期間休んだりするのがいるから、やりにくいと言っていた。しかも、東京の中高一貫校を経て東京大学を卒業したような、絵に描いたようなエリートの中にも、結構いるというのである。

 私の同僚がそういう新人と膝を突き合わせて話し合い、やっと原因のひとつではないかと思い当たることがあった。つまり、この連中は「生まれてこの方、親はもちろん周囲の大人から、一回も叱られたことがない」というのである。常日頃「良い子、良い子」と褒められることしか知らない。だから、職場で上司に「そんなことでは駄目だろう」と小言ひとつ言われただけで、精神的にパニックになり、どうしてよいかわからないという状態に陥るらしい。私はこれを聞いて、いや情けない、こんなことでは世界を相手に戦うなんて、とても無理だろうと思った。事実、最近の日本は、世界で通ずるような製品や人材を生み出せていない。それどころか、外国へ行く日本人留学生の数はどんどん減っていくし、液晶などの家電製品や半導体のような先端製品では、韓国や台湾にしてやられている。超一流企業となったサムソン、国連事務総長や世界銀行総裁を輩出するお隣の韓国とは、大きな違いである。競争の激しい韓国では皆が川の激流下りのようなことをやって、いかに早く上手に下ることが出来るかという競争している。これに比べれば、さしずめ日本は、皆で、のほほんと足湯に浸かってぼやーっとしているようなものだ。

 なぜこんな、無競争状態というバカなことになってしまったのか、私には心当たりがある。私の子供たちが小学校の頃、学芸会があるというので、それを見に行った。すると、驚いたことに、ひとりひとりが台詞をブツ切りにして演じている。たとえばひとりが「ぼくはあの」というと、その次の子供が「赤い風船が」と続け、その隣の子が「やっぱり欲しい」などと言っている。いったい、何だこれはと思った。我々の時代は、学芸会といえば、皆が主役になろうと手を上げ、目立とうとし、その結果の勝者が主役を勝ち取るという実社会と同じような過程を経てきた。しかし、このように誰でも必ず何らかの役と台詞にありつけるなんて、そんな無競争ぬるま湯社会など学校を出たらあり得ないではないか・・・本当に役に立たない教育である。また、運動会を見に行って、これまた驚きを通り越して悲しくなった。というのは、一緒に走るグループをいずれも早さが同じような子供ばかりにして、差がつかないようにゴールインさせていた。これだって我々の時は、何次も予選をやって選抜し、最後に決勝をやって勝ち残るという強い者勝ちの世界だった。だからこそ、普段は勉強のできない劣等生の子でも、足が速ければ全校で一番になることが出来、そういう面で優越感を味わうことが出来る唯一のチャンスなのである。しかし、最近の運動会のようになると、これこそが悪平等そのものである。こんなことでは、競争の激しい国際ビジネスの世界で、大きく遅れをとるはずだと思うのである。

 では、そうした厳しい競争社会を生き抜くには、どうしたらよいか。私が思うに、自分の特技を最大限に生かすことだ。人には、いろいろな能力や特技がある。それをまず自分で必死に探して自覚し、さらにそれを磨き大きくして生きる術とすることしかない。たとえば私の場合、小学校低学年のとき、都会の神戸から、とある北陸の田舎町へと転校した。標準語の世界から突然、ど田舎の言葉の中に放り込まれたものだから、「おまえの言葉はラジオの言葉だから、けしからん」と、さんざんいじめられた。いじめっ子の中には、4月生まれの体格の良いガキ大将がいて、そもそも体格が違うから取っ組み合いの喧嘩をしても、なかなか勝てない。小さいながらも、こういう連中とどうやって張り合っていこうかと必死に考えをめぐらした。

 学校への行き帰りに取り囲まれてやられることが多いので、時間をずらして顔を合わせないようにしたり、それでも万が一、取り囲まれたら、一番弱い相手のところから突破したり、そのためにあらかじめ懐柔したりと、いろいろと対策に頭をめぐらせた。あるいは、少し勉強して先生に目を掛けてもらったりと、本当に苦労した。考えてみると、こういう戦術・戦略の策定こそが、私が今日ある礎となったのかもしれないと、そのガキ大将たちに感謝しなければならない。世の中、何が幸いするかわからないものである。

 ところで、私と同様の事情にあった転校生がもうひとりいた。こちらは東京からだが、やはり最初は執拗ないじめの対象となっていたものの、彼は私とは違うやり方でうまく切り抜けていた。彼は抜群の運動神経の持ち主で、小学校の低学年だというのに、体育館の高い鉄棒を使って軽々と大車輪などをやってみせ、一躍、小学校の人気者となっていた。こちらも、あれは別格ということで、いじめは止まったことは、いうまでもない。そういうことで、社会で生き抜くということは、必ず誰かとぶつかるものである。自分の知恵と特技を総集めして、難局をいかに切り抜けるかと工夫することが、その人のその後の人生の糧あるいは知恵というものを作り出すものなのだ。ところが、今の学校教育は現実にはあり得ない悪平等の世界をわざわざ作り出し、そういう生きる力や知恵をひねり出せない構造になってしまっているのではないだろうか。そう思えてならない。

 ところで、先般、NHKのテレビ番組を見ていると、最近、新型うつ病というものが見受けられるようになったというのである。普通、うつ病なるものは、仕事をはじめとして何についてもやる気がなくなるというものだが、この新型うつ病の場合は、仕事は出来ないけれど、旅行やダンスや趣味など仕事以外のものは出来るというもので、従来のうつ病の常識を超えるものらしい。典型的なケースでは、たとえば、会社の新人が仕事でミスをして、課長にこっぴどく怒られたとする。そこでどうなるかというと、先に書いたように私の時代には新人はそこで発奮して学び、先輩に追いつこうとした。しかし先に書いたように今から10数年ほど前からは、その新人は「へたって」しまって「出てこなくなる」。ところが驚くべきことに、最近流行っているこの新型うつ病の場合には、「出てこなくなる」のはその10数年ほど前からのものと同じだけれど、そこで会社や課長を「逆恨み」して、ネットにさんざん悪口を書き込んだり、仕事以外のことに情熱を注ぎ、旅行や料理やダンスは楽しめるという現象になるのだという。

 なぜこんな不思議なことになってしまうのかというと、要するに「叱られることなく」育ち、そういう意味での挫折を味わったことがないから、うまくいかないと「自分」ではなく「他人」を責めるという思考回路になるのだという。加えて、自分の絶対的能力を客観的に評価できない。つまり、こんなに頑張っているのに、なぜ叱られるのだという思いが出てくる。実はこれは学校教育の評価が絶対的ではなく、相対的になってしまったことが原因ではないかという。つまり、5段階評価で5の成績をいとも簡単にあげることができる子と、4の成績しか上げられないけれど、それに至るまで一生懸命に頑張ったという子とでは、相対的評価では後者の4の成績の子の方が高くなるというのである。しかし、いったん社会に出たらもちろん絶対的評価だから、4の成績よりも5の成績の方が高く評価されるのは当たり前の世界なのである。何百人、何千人、いや何十万人の凡人より、たったひとりの天才がいれば、絶対的に優れているその天才が勝つのは当然のことである。

 自分が天才でないと思う私のような人は、自らの特技を生かしてどう生きていくかを必死になって考え、自分が天才だと思える幸運な人は、更にその能力を磨いて社会の中で確固たる地位を占めていくかということに心を砕くことである。それが人生であり、それがあるから社会は発展するし、他の国にも伍していけるものだと思っている。それが出来ないという人は、ライオンの世界では藪の中へ消えるという運命にある。幸い、ここは人間の世界でしかも憲法25条の規定がある現代の日本であるから、必要な最小限度の社会保障は受けられる。しかし昨今の財政事情を考えれば、もはやバラマキ的な社会保障政策は限界に来ていることから、結局は、自助努力しかあるまいと思っている。自分の才能と知恵と工夫を総動員して、この大競争社会をしっかりと生き抜くしかないのである。



(2012年 5月10日記)


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(平成24年5月3〜10日著)
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