悠々人生のエッセイ、清澄庭園の雄大な景色







清澄庭園の雄大な景色の写真へ

 おやまあ、何と清々とした庭園なのだろうというのが、第一印象である。なるほど、「清澄」というわけだと、心から納得した。だって、広大な池が、青い空、白い雲、周囲の緑の木々をその水面に写して、ますます広く、かつどこまでも奥行きがあるように見えるのである。庭園全体が雄大さに富み、湖面は青く澄み、そしてどこまでも清々しい。一目で、この庭園が気に入ってしまった。これまで、ここに来なかったのが、実にもったいないと思えたほどである。

 実は、家内は既に息子とこの清澄庭園に来ていて、「紀伊国屋文左衛門の屋敷跡で、清々しくていいわよう。全国各地から石が取り寄せられているし」と言うから、紀伊国屋と全国からの石・・・いったい何のことかと思っていた。来てみると、いただいた都の公園協会のパンフレットによれば、こういうことだった。

清澄庭園の泉水


 まずは、言い伝えとして、この地は江戸期の豪商で知られた紀伊国屋文左衛門の屋敷跡といわれているらしい。なるほど、町人身分の文左衛門は、川の向こうにしか屋敷を設けられなかったものとみえる。その後は、享保年間(1716〜36年)に、下総国、関宿の城主である久世大和守の下屋敷となり、庭園らしきものができたという。明治11年になって、岩崎弥太郎がこの邸宅を買い取り、社員の慰安や賓客をもてなすべく庭園を整備し、深川親睦園として開園したそうな。現に、園内には、明治42年にイギリスのキッチナー元帥をもてなした写真が残っていた。それから、継続的に改良工事が行われて来て、隅田川の水を引いた大泉水、築山、全国から取り寄せた名石を配して、明治を代表する「回遊式林泉庭園」として完成したとのこと。大正12年9月の関東大震災、昭和20年3月の東京大空襲のときには、被難所となって多くの人々の命を救ったと書かれている。

清澄庭園の数寄屋造りの「涼亭」


 大きな池は、泉水(せんすい)というそうで、正面の対岸で湖面に突き出ている数寄屋造りの「涼亭」、三つの島などが複雑な池の形と相まって見る方向により、まったく景色が違ってしまうのが素晴らしいところである。隅田川から水を引いていた頃は、東京湾の潮の満ち引きによって、湖面が微妙に上下して、それも魅力のひとつだったそうだが、現在は川からの水はなくなり、雨水をためているというから、そういう楽しみはなくなってしまったようだ。

清澄庭園の名石


 園内のあちこちに、岩崎家が全国各地から集めてきた名石が配置されている。ちょっと見ただけでも、伊豆の磯石、伊予の青石(淡い緑色をしている)、佐渡の赤玉石(その名のとおり、赤いレンガ色をしている)、京都の保津川石などがあった。運送業もしていた岩崎家だから、自社の汽船で隅田川沿いのこの地まで運び込むことは、お手の物だったようだ。

清澄庭園の「磯渡り」


 途中、池の中に「磯渡り」という。石を並べているところがあって、そこを通るとまるで池の中を歩いているように感ずるから、面白い。ちなみに、そこを過ぎると、ちゃんと大きな平らな石があって、そこから、鯉や亀に餌をやることができるから、うまく造られている。私が行くと、そこで2〜3歳の兄弟が、魚の餌として麩をやっていて、感激して大きな声を上げていた。そうだ、あと1〜2年すると、孫を連れてきて、ここで一緒に餌をやろう。

清澄庭園で小さい子が魚などに餌をあげている

清澄庭園の「富士山」



 泉水の回りを巡っていくと、5月初めには全山が躑躅で真っ赤になるといわれる「富士山」があり、別名をツツジ山という。この日は、残念ながら、サツキが少し、咲いているだけだった。それから、花菖蒲田の方へと向かったが、ああ、ちょうど満開のようだ。花菖蒲が数多く立ち並ぶ素晴らしい景色である。ただし、やや遠くにあって、花の接写はできなかったので、超望遠レンズを取り出して、何とか個々の花の写真を撮ることができた。なお、近くに芭蕉の句碑(古池や かはづ飛び込む 水の音)があったようだが、この日は見逃した。次回の楽しみとしよう。

清澄庭園の花菖蒲



 なお、近くに石仏群というものがあり、庚申塔(1670年・1815年)、法院慶光供養塔(1679年)、馬頭観音供養塔(1774年)である。江東区文化財とあるので、江東区内のあちこちにあったものを集めてきたらしい。それぞれに由来や伝承があるはずだが、もはや伝える人も文献もないので、よくわからない。これから、こういう文化財が増えていくことだろう。

清澄庭園の泉水







(平成22年6月 6日著)
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