悠々人生のエッセイ

祇園と京の神社仏閣

おたべ人形と祇園の本物の舞妓さん





1.今回の京都への旅

 大学時代の同窓会が、今年は京都で開かれることになったので、家内とともに出席することにした。とりわけ今年は、我々の入学時から数えて40周年に当たる区切りのよい年だから、一次会は北白川の料亭で豪華に、二次会は祇園の花町に繰り出して派手にやろうというプランだった。もちろん、同級生といっても中には色々な趣味の人もいるので、花町などよりもギターや歌が好きな人は、中心街のどこかのレストランを借りきって、最近はやりのおじさんバンド形式でライブ演奏をするという人たちもいる。昔から楽器が苦手な私と家内は、もちろん祇園組である。とりわけ家内は、舞妓さんと合うのは初めてなので、とても楽しみにしていた。

 同窓会の当日は、いつもよりゆっくりと起きて、家内と新幹線に乗った。車中で、家内が買ってきた最近の旅行誌をたんねんに読み、どこの神社仏閣に行こうか、じっくりと相談した。京都へは、実はこの数年、二人で相当の回数、訪れている。だから、定番の嵐山や洛北、京都駅近辺、それに宇治界隈の主な社寺へは、もう行ったことがあるので、これからは、落ち穂拾いのように、まだ行ったことのないところへ行こうということになった。そこで今回は二日半の日程なので、たまたま前回に行き残した産寧坂界隈、葵祭で有名な上賀茂神社、枯山水庭園の大徳寺、そしてこのあいだ平成の大修理が終わったばかりの西本願寺は必ず回り、そして時間があれば、相国寺と南禅寺を目指すことにした。また、私は余力があるなら、三脚を担いで祇園と八坂神社の夜景を撮るつもりである。

ウェスティン都ホテル

 近頃の旅行は、昔に比べれば、たいそう楽になった。新幹線のおかげであることは言うまでもないが、それにも増して、宅配便はすごい。往復でホテルあてに発送し、また帰りにそのまま自宅あてに届けてもらうようにしておけば、本当に手ぶらで観光することができる。今回もそのようにした。トランクを前々日に定宿のウェスティン都ホテルに送ると、ポーターが部屋まで届けておいてくれる。そして、出発の日に電話一本で取りに来てくれ、もう翌日の午前中には自宅に届いているという塩梅である。しかも、料金は誠にリーズナブルなものときている。何回も海外旅行をしたが、こんな効率のよい快適なシステムは、日本にしかない。これは、世界に誇ってよい社会的財産だと思う。


二年坂に入ったところ


2.二年坂・産寧坂から清水坂へ

 それはともかく、京都駅に着き、八条口に出ると、都ホテルのコンシェルジェがいた。そこで、手持ちのボストン・バックを預かってくれて、ホテルの部屋に届けてくれる。これがまた、歳をとった旅行者には便利この上なく、このホテルを定宿にしているひとつの理由でもある。それで文字通りすっかり手ぶらとなったので、前回の旅の積み残しである高台寺から清水寺にかけての地域に行くことにした。まず、タクシーで高台寺前「ねねの道」へと直行する。そこから、二年坂に続く細い道へと入った。この辺りは、雰囲気のよい土産物屋や、ちょっとした料理屋が軒を連ねていて、歩いていて楽しい。


二年坂のウチワ屋さん
産寧坂

 ああっ、これはウチワ専門の店だ・・・、清水焼と称する焼き物ばかり売っている店もある。湯豆腐だって・・・、陶芸教室ねぇ・・・、そうこうしていると、三年坂、いわゆる産寧坂に入ったようだ。ここは、清水寺へ安産祈願に行く街道筋に当たっていたので、産寧坂と呼ばれるようになったという。また、不思議な置物ばかりを並べている店がある、外国人専門かもしれない・・・。最後にかなりの急坂を登って、清水坂と直角に交わり、産寧坂はここで終わりとなる。

産寧坂の不思議な置物屋さん
産寧坂の上から、来た道を振り返る

 清水坂は、もちろん清水寺の参道で、これまたいわゆる観光地型のお土産屋で一杯であるが、そんな店の中で、私の好きなおたべ人形を見つけてしまった。これは写真に撮らなければと、さっそく一枚をものにするが、人形さんがゆっくりと顔を上下するので、案外そのタイミングが難しい。しかし、最初の一枚で決められた。そのほか、聖護院の八つ橋がやっぱりあった。この二つは、京都の定番である。あれあれ、履物屋もあった。最近、下駄を履く人などいるのだろうか。

清水坂のおたべ人形

清水坂の履物屋


3.清水寺の清水の舞台

 清水寺に出た。すると、雲水さんがひとり托鉢をしておられたので、失礼ながらその雲水さんも入れた構図で、まず一枚撮ってみた。なかなか、良い写真になったと思っていたが、パソコンでよく見ると、たまたま写っていた観光客の女性のひとりが、片足を上げた妙なポーズをしているので、興ざめしてしまった。


清水寺の門前の雲水さん

 清水寺では、もちろん「清水の舞台」が有名である。前回は秋に来たので、紅葉が実に素晴らしかった。今回は、緑に囲まれていたが、これがまたとても美しくて、背景に京都市内との対比もまた、しばらく眺めていても飽きないものである。清水寺のHPによると、「本堂と舞台は、江戸時代初期のもので、国宝である。優美な起り反り(むくりそり)曲線を見せる寄棟造り、桧皮葺きの屋根や軒下の蔀戸など、平安時代の宮殿、貴族の邸宅の面影を伝え、四囲の音羽山の翠緑と見事に調和する」とのこと。

清水の舞台

 ところで、最近、家内が清水寺を取り扱ったテレビを見ていて、その「飛び降り」についての話があったという。家内からの受け売りだが、興味深いので、ここに紹介しておきたい。それは、江戸時代には庶民の間で、この「清水の舞台から飛び降り」れば「願いごとがかなう」という庶民信仰があったというのである。そして、その記録が残っているそうで、それを読み解くと、江戸時代の一部の約150年間のあいだに、飛び降り事件が234件(覚えやすい!)も発生した。ちなみに、この清水の舞台の高さは、13メートルもある。そして、死亡率は、約15%だったという。意外と低い数字で、たいへん結構である。とりわけ、10〜20歳代では生存率が90%であったようであるが、60歳台以上では、飛び降りた6人の全員が死亡しているとのこと。やはり、歳をとったら、無理は禁物である。

茶わん坂をあるく、通称「おばけ」さんたち
茶わん坂を歩く「おばけ」さんたちに、修学旅行生が群がる。

 さて、清水寺の帰り、茶わん坂を下っているとき、目の前を舞妓姿のお嬢さんたちが通り過ぎた。素人さんが観光用の衣装を借りて練り歩いているもので、京都人からは「おばけ」と揶揄されているお姿である。下り坂を、履きなれないぽっくりでちょこちょこ歩く様子は、いささか痛々しいものだったが、そういう事情を何にも知らない修学旅行生たちは、「あつ! 舞妓さんだぁ」と大騒ぎで、カメラを持って撮りまくっていた。それにしても、ホテルで見たこの種の衣装を提供する会社、ナントカ工房の広告を見ると、これまでのお客さんの数は、40万人を超えたという。本当かなぁ・・・料金表を見ると、一人当たりの売り上げが1万円として、総額40億円も、これで儲けたのかぁ・・・。


祇園の夜景(本文とは関係ありません)


4.同窓会

 午後5時と、早い時間に同窓会が始まった。場所は北白川にあるいかにも京都らしい雰囲気の料亭で、日本式の庭付きの部屋である。それはよいのだが、36名もの人が集まる部屋にしては、手狭すぎる。幹事によれば、要するにこんなに集まってくるとは、予想外だったというところだろう。私のように奥方連れも何人かいて、これまた盛況という感じを引き立てるに役立っているが、部屋がますます狭くなっている。まあしかし、狭いからかえって親密なお付き合いが出来るということも、いえないこともない。

 会が始まった頃は、何人かの人たちは、庭を愛でる風流な気分もあったのだけれども、暗くなって、あたりを見回せば、すぐに学生時代と同じような大騒ぎとなる。もちろん、40年も経つと、お互いに外見は相当に変わった。とりわけ男だから、頭(おつむ)とお腹回りの変化は隠しようがない。たとえば、頭は、すでに白くなった人、薄くなった人、それどころか毛そのものが消失した人などまったく様々である。加えて、腹回りがすごく太くなった人も多い。メタボ3兄弟などと冷やかされる3人もいたが、学生時代と比べてそれぞれ40キロ近くも増えているのではないかと思うほどである。その反面、学生時代とほとんど変わりない外見の人も何人かいて、いったいどうしたら、こんな風にスリムな体を維持することが出来るのだろうと、皆で不思議がった。そうした中を、参加した人たちは、学生時代に返って、わいわいガヤガヤと、話の尽きないこと、まあとめどもない。何を食べたかも忘れてしまったほどである。もっとも、出された料理がたいしておいしくなかったせいかもしれない。

 この会に参加できなかった人たちからは、電子メールをいただいており、各人にその冊子が手渡された。それを読むと、仕事が忙しいというよりは、ガンやら椎間板ヘルニアやらで、体が思うにまかせないという理由が多い。もう、そのような年になったのかと、一同しんみりとした気分になるが、そこはそれ、みんな厚かましいからすぐに忘れてしまって、自分だけは例外だと信じて疑わないからすごい。

 やがて、遅れてきた人も揃ったところで、一言ずつ、近況をしゃべることになった。もう定年を迎えた人も多いが、ひとりひとり立ってしゃべり出すと、その話し方や体のゆすり方など、40年前とさほど変わりがないから笑ってしまう。きっと私の場合も、そのように見られているのだろう。かくして、人間というものは、あまり進歩しないものであると実感する。もっとも、しゃべる内容は大きく変わって、第二の仕事の内容とか、孫が生まれたこととか、そんな話が多かった。あっという間に時間が過ぎ、さて、いざ二次会へ行こうということになった。


花見小路の夜

祇園の夜景(本文とは関係ありません)

祇園の夜景(本文とは関係ありません)


5.花見小路のお茶屋

 私たちは、祇園は花見小路のお茶屋組である。細い小路に入っていき、目指すお茶屋に着いた。入り口はとても暗くて、目を凝らして前方を見ておかないと、つまづいてしまいそうなほどである。そういう、お茶室のような雰囲気の細い道をたどって行くと、そこは玄関で、まだ木の香りがしそうな、板敷きも新しい家である。そして新品の座敷に通された。そこには、床の間の真ん中に大きな卓があり、うれしいことに掘りごたつ形式になっているから、足を伸ばせる。ただし、背もたれはない。その部屋には、舞台が備えられており、その向こうはガラスを隔てて小さな庭がある。部屋のあちこちに置かれている明りは、もちろん上向きの白い朝顔のようなもので、電球色の温かい雰囲気となっている。居心地は、すこぶるよい。


舞妓さん

 舞妓さんが二人、芸妓さんが二人と、順次出てきて、宴会の始まりである。家内が、脇に坐った20歳前の芸妓さんと、何やら話しをしている。後から聞いたところによると、かんざしについて問いたそうだ。毎月、2月は梅、4月は桜、9月は桔梗などというように、時期に応じて変えていくと言っていた、とのこと。「8月はウチワでしょ」と聞くと、大当たりだったとご満悦の様子。ウチの奥さん、なぜ、そんなことを知っているのだろうと、私は目を丸くした。年末は、贔屓の歌舞伎役者さんのところに赴いて、サインをもらい、それをカンザシとして、髪に挿すのだそうな。

芸妓さんの舞〜祇園京舞(ビデオ)は、こちら


 お酒を飲みながら、ひとしきり挨拶やら雑談やらを繰り返した後、さて、いよいよ祇園小唄をお座敷で披露することとなった。まずは、地方(じかた)を務めてくれた姉さんの、声の美しさとその大きな声量に、一同、脱帽した。「月はおぼろに東山〜〜」に始まり、二人の舞妓さんが舞う、舞う。「祇園、恋しや、だらりの帯よ〜〜」というところでは、ひとりの舞妓さんが後ろ向きにだらりの帯を見せ、もうひとりの舞妓さんがそれを優雅に指さすという具合。歌詞の一番が終わり、二番は夏は河原の夕涼み、三番が鴨の河原、最後の四番の雪はしとしとまで歌って踊ってくれたのには、一同、感激の面持ちであった。実は私も、三番と四番は、あまり聞いたことがないのである。


舞妓さんの舞〜祇園小唄(ビデオ)は、こちら


      月はおぼろに東山
      霞む夜毎のかがり火に
      夢もいざよう紅桜
      しのぶ思いを振袖に
      祇園恋しや だらりの帯よ

      夏は河原の夕涼み
      白い襟あしぼんぼりに
      かくす涙の口紅も
      燃えて身をやく大文字
      祇園恋しや だらりの帯よ

      鴨の河原の水やせて
      咽ぶ瀬音に鐘の声
      枯れた柳に秋風が
      泣くよ今宵も夜もすがら
      祇園恋しや だらりの帯よ

      雪はしとしとまる窓に
      つもる逢うせの差向い
      灯影つめたく小夜ふけて
      もやい枕に川千鳥
      祇園恋しや だらりの帯よ


    
            (田幹彦作詞・佐々紅華作曲)


 その後に、あいさつに来た地方(じかた)のお姉さんに、いやもう、あなたの歌は素晴らしかったと手ばなしで誉めた後、「それにあなたは、お若くて美しい。東京の向島辺りでお座敷となると、私の母親くらいの年齢の人が出てくる」というと、何といってよいのかわからないようで、ただ苦笑いをしていた。

地方(じかた)のお姉さん。すばらしい美声の持ち主

 そのうち、家内が二人の舞妓さんのうちのひとりに、どこか見覚えがあるという。いろいろと聞いたところ、何とまあ、我が家で毎年飾っている舞妓さんカレンダーのモデルになっているというではないか。それでは、「Aくんは知り合いか」と聞くと、やはり、かなりのおなじみさんらしい。びっくりした。世間はなんと狭いことか・・・。

 それから、お座敷遊びなるものに、一同が挑戦した。ふたつやったのだが、そのうちのひとつは、割り箸に、神主さんが御祓いで使うような「御幣」を薄紙で作ったものを使う。そして、三味線に合わせて「べろべろの神様が〜〜」などと歌いながら、それを回していく。途中で三味線が鳴りやむときに持っていた者が負けで、コップ一杯の酒を飲み干す。そしてまた歌いながら回していくということを繰り返して、自分もべろべろに酔っぱらうというものだ。やってみると、子供時代の昔に還ったようで、結構面白いものである。中には、自分に当たるのが嫌で、さっさと御幣を回そうとする人もいれば、じっくり御幣を持っていて、他人にババを引かそうとする人もいる。しかし、総じて、早く回した人が、大過なく過ごせたようだ。奥様方は、それを手にしたらもう、バトン・リレーのように他人に手渡してしまうので、笑ってしまった。私といえば、3回ほど、つかまってしまった。うち1回は、当たった後で、また自分を当てたという「自爆」なものだから、どうしようもない。でも、一同、子供の時分に戻って、心から楽しめた。しかし、これが終わっても、翌日の夕方頃まで、頭の中で「べろべろの神様が〜〜」という歌がふと出てきて、これには困った。


6.夜の京都の撮影

 この7月に、奈良の夜景を撮ったように、京都でも夜景を撮りたいと思って三脚を用意してきた。ところが、いろいろと聞いてみると、観光の一環として夜間一斉にライトアップするというようなことはしておらず、どうも紅葉の季節などに寺院ごとにバラバラでやっているようである。それでも、祇園の花見小路界隈や、四条河原町辺りでは、夜通ると、なかなか美しい風景もある。そこで、この祇園でお座敷に上がった翌日の夜、家内をホテルに残して、夜景の写真を撮りに出た。

歌舞伎の南座の夜景

 着いたのは、四条河原町で、そこから八坂神社に向かって歩き始めた。しかし、夜の9時少し前なので、まだ人通りが絶えないし、歩行者用道路は狭い。だから、三脚を広げるなど、もってのほかという感じである。仕方がないから、カメラを手で構え、両脇を締め、手ぶれを少しでも防ぐために2秒後にシャッターが切れるように設定して撮った。これは、案外うまくいって、さほどブレることもなく、出来上がりの写真にはほとんど問題がなかった。

 そういう調子で、歩く途中にふとした街の風景を撮ったり、特に歌舞伎の南座を撮ったりして、八坂神社まで行きついた。そこで、交差点前でラットアップされている楼門を撮ろうとした。ところが、その楼門までは、交差点を隔てているからかなり距離がある。だから、さすがにここは三脚が必要である。幸い、人通りの迷惑にならない街灯の陰に広げることが出来て、じっくりと撮影した。液晶画面を見ると、うまく撮れたと思っていたのだが、闇の黒い部分があまり美しくない。やはりノイズが少し入っていたのは残念である。それから、祇園北部の新橋通から白川沿いの地区に行こうとしたのだが、どうも新宿歌舞伎町辺りのような怪しい雰囲気なので、止めようかどうしようかと考えていたところ、たまたま小雨が降ってきた。そこで、夜の撮影は切り上げて、ホテルに戻ったという次第である。

八坂神社の西楼門の夜景


7.上賀茂神社

 朝起きて、部屋の窓から東山地区の北側を見渡した。朝日に照らされて、なかなか良い眺めである。目の前には、平安神宮の赤い鳥居がよく目立つ。その隣には、かわいい観覧車まであるが、どうやら岡崎公園らしい。今日は、良い日だが、天気予報だと気温は28度にもなるという。近頃の東京は24度くらいだから、やはり東京は北辺の地なのだろうかと思ったりする。


平安神宮の赤い鳥居


 家内がかねてから見たいと言っていた上賀茂神社に行こうということになった。京都の地下鉄にも乗ってみたいと思っていたので、ホテル近くにはたまたま蹴上駅があるから、地下鉄を利用した。そこから東西線に乗り、烏丸御池駅で烏丸線に乗り換えて、北山駅に着いた。東京の地下鉄とは様子が違って、車中にはあまり乗客がいない。これでやっていけるのかと心配するほどである。また、地下鉄が非常に深いところにあるのも印象的だった。地下4〜5階といったところである。遺跡などにも配慮したのだろうか。

 北山駅から地上に出ると、そこは車がビュンビュンと通る大通りである。晴天の日で、駅から出たとたん、いやはや非常に暑かった。流しのタクシーを拾い、上賀茂神社神社へ向かった。到着すると、青い空と木々の緑に、神社の一ノ鳥居の緋色が映えて非常に美しい。ああ、これが日本の原風景なのだという気がする。参道の左右には緑の芝生が植えられて、そこのあちらこちらで家族連れが休んでいる。道の両脇には赤い幟が何本も立っていて、手づくり市が開かれているとのこと。そういえば、右手の方に人だかりがしている。


世界遺産・上賀茂神社の鳥居
上賀茂神社の神馬舎

 両脇の芝生に挟まれた一本道をそのまま歩いていくと、左手の小屋から白い馬が顔を覗かせている。「神馬舎」とあるので、神様の乗り物の馬らしい。しかし、無理やりそのような地位を賜ったものだから、ちょっとご機嫌が斜めで、たとえば女の子が近付くと、びっくりして騒ぐ。そこで、隣に控えている馬丁らしきおじさんが出てきて、それをなだめるということを繰り返していた。

上賀茂神社の拝殿の前に置かれた立砂

 さて、二ノ鳥居を越えて、いよいよ神域に入ったのだが、まず目にしたのが、正面の拝殿の前に置かれている円錐形をした二つの砂の山である。立砂といって、上賀茂神社を紹介する写真には必ずと言ってよいほど出てくるものだ。何だろうと思っていたが、後ほど特別参拝のときに説明を受けてわかった。これは、そもそもこちらの祭神の別雷神(わけいかづちのかみ)が、「神代の昔、本社の北北西にある、秀峰神山(こうやま)に御降臨に」なったのであるが、それ以来、これを神様が降りられるときの依代(よりしろ)つまり目印としている由。そしてこれは、鬼門などにまく「清めのお砂」となり、ひいては家の入り口の両脇に置く「清めの盛り塩」の起源となったそうな。ああ、そうか・・・初めて、清めの塩の由来を知った。やはり、旅はしてみるものだ。

朱塗りも鮮やかな上賀茂神社の楼門

 さらに進むと、朱塗りもいと鮮やかな「楼門」に出る。石段を上がると参拝所になっていて、中から祝詞を朗々と詠む声が聞こえてきて、誠に厳粛な気持ちとなる。そして、今日は特別参拝を行っているというので、さっそくお願いしてその中に加えてもらう。神主さんの説明を受けた後、左奥側の「権殿」の正面まで入れてもらった。右奥側には「本殿」があるそうだが、権殿と本殿の造りは、まったく同じだという。神様は普段は本殿に鎮座していて、火事や立替えでやむを得ないときは、こちらの権殿にお移りになるらしい。何か、現代のコンピューター社会にも通じるような、見事なセキュリティ対策ではないか。これらの建物は、21年毎に、式年遷宮を行う決まりとなっていて、あと6年後らしい。そして、そのたびに桧皮葺用の桧皮を15トン半も入用だという。出口には、それを寄進するというコーナーがあったので、「寄進」として、自分の名前と住所を書き、奉納した。すると家内が、「6年後に、これが屋根に使われるときには、また来なくちゃね」と言っていた。では、そうしようという気になったから、我ながらなんとも不思議である。

 そこから出て左に行くと、「片岡社」という小さなやしろがあり、縁結びの神、紫式部も参拝したとある。前者は関係ないが、紫式部の歌というものが掲示してあって、それには、「賀茂にまうでて侍りけるに 人の、ほととぎす鳴かんと申しけるあけぼの、片岡の梢おかしく見え侍れければ」との前文がついていて、本体は、次のようなものである。

 「ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしずくに 立ちやぬれまし


奈良(楢)の小川の中の石を露出時間80分の1秒、ISO感度1000で撮った写真


 さらにその先、境内の中を北から南に舞殿の下をくぐって、奈良(楢)の小川が流れている。これも、風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける」(藤原家隆・小倉百人一首)で有名だ。そのほとりに立ち、ちょうど椅子があったので、そこに坐ったところ、大都会の真ん中とは思えないような静けさである。鳥のさえずりと川の流れる音しか聞こえて来ない。流れの中に、石がいくつかあるところがあり、それを眺めているうちに、カメラのことを思い出した。シャッター・スピードを遅くしてこれを撮ってみると、どうなるか。心は、平安の歌の世界から、いきなりデジタルの世界へと切り替わった。まず最初は、露出時間80分の1秒、ISO感度1000とした。それが上の写真で、撮ってみたとたん、「おお、水のしぶきが写っている」と感激した。今度は、露出時間1秒、ISO感度160としたところ、下の写真がそうで、水がまるで布を敷いたように見えるようになった。なるほど、こうなるのかと納得した。ただし、三脚を持っていないので、動かさないようにするのが、ちょっと大変だった。

奈良(楢)の小川の中の石を露出時間1秒、ISO感度160で撮った写真


8.大徳寺の塔頭

 上賀茂神社を辞して、タクシーで大徳寺へと向かう。ここは、禅寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。境内の塔頭の数が確か22と、非常に大規模なお寺だ。境内を歩くと、どこもかしこも整っていて、鎌倉のお寺を歩いているように、すっきりとした気分になる。まずは、大徳寺の塔頭の中で一番古い龍源院(りょうげんいん)を拝観した。ここには、東滴壺(とうてきこ)、一枝坦(いっしだん)、龍吟庭(りょうぎんてい)、こ沱庭(こだてい)別名阿吽(あうん)の石庭という4つの枯山水の庭園がある。特に龍吟庭では、「中央に突出している須弥山は、我々が本来備え有している絶対的人間性で、誰も窺い犯すことのできぬ本来の姿であり、これを表しているのがこの龍吟庭で、これを自ら発見することが禅の悟りである」と書いてあったが・・・、この庭を目にしても、なんだかさっぱりわからなかった。なお、方丈には、天正11年(1583年)の日本最古の種子島銃と、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝わる四方蒔絵碁盤があったので、ついしげしげと眺めてしまった。


龍源院の枯山水、一枝坦(いっしだん)
日本最古の種子島銃と、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝わる四方蒔絵碁盤
龍吟庭(りょうぎんてい)で、中央に突出している石組は須弥山を表し,青々とした杉苔は洋々たる大海を表わすという。

 龍源院を辞して、大徳寺の方丈の方へと進んでいくうちに、もうお昼を過ぎてしまって、空腹を感じてきた。これでは、外へ出るしかないなと思っていると、ちょうど良い具合に、境内に「泉仏(いづせん)」という料理屋があるらしい。長々とした細い小道をたどって、ようやくそこに着いた。「鉄鉢料理」といって、「禅のこころ 鉄鉢を彩る」などと書いてある。その説明によれば、「鉄鉢とは、僧が食物を受けるために用いた鉄製の丸い鉢のこと、遠くインドにはじまり、日本へは奈良時代につたわり、托鉢の僧が用いたと言われています。泉仙の鉄鉢料理は、この鉄鉢をかたどった容器に、四季おりおりの味覚を盛り込んだもので、禅のこころと、京料理の伝統を現代に生かしています」とあった。それで、どんな料理だったかというと、もうそれは京料理の典型で、チョボチョボっと細かいものが次々に出てきた。いずれもお味は、値段相応だったと言っておこう。それよりも、出てきた料理の入れ物が、ちょうどマトリューシカ人形のように、全部、重ねられるのには、びっくりした。

鉄鉢料理「泉仏(いづせん)」への道
鉄鉢料理「泉仏(いづせん)」(出典)泉仏のパンフレットより
出てきた料理の入れ物が全部、重ねられる!

 次に訪ねたのが大仙院(だいせんいん)であり、大徳寺の塔頭の筆頭格である。国宝の本堂と特別名勝・史跡の枯山水庭園で有名で、先日、NHKのテレビでも放映していたことから、私たちも楽しみにしていた。永世6年(1509年)、正仏大聖国師古岳宗亘禅師が開祖。特別名勝の庭園である枯山水は、大聖国師によるもので、応仁の乱の直後、約490年前の作である。説明によれば、「鶴島と亀島との間に蓬莱山があり、そこから滝が流れ落ちる。石橋の下をくぐり透渡殿の下をくぐった水は、一旦堰に落ちて大河となり、石の宝船が浮かび小亀の泳ぐ景色を見せて遂に方丈南側の大海に至る。同じ蓬莱山の滝の水が亀島の前を通って西行すれば方丈北の中海に至る」とのこと。なぜ、こうした枯山水がこの時期に作られたかというと、「第一に禅宗の影響で、作庭が禅宗風になると、その形態が極めて抽象的となる。たとえば白砂を敷いて水流を表現したり、石を立てて滝の音を表現する。第二に、水墨山水画の影響で、同じく禅宗の影響を受けると破墨山水の如き抽象的表現となるが、この手法が庭園にも及んだ。第三に、政治的経済的影響で、室町時代には下剋上が盛んになるなど、足利幕府も中期になるとそれまでの貴族大名が政治的に没落し、また経済的にも逼迫してくることから、それまでのような規模壮大にして自然をそのまま取り入れたような庭園(大覚寺の嵯峨離宮、西芳寺の苔庭、金閣寺の庭園など)を造営することが困難となった」という。


大仙院にて、鶴島と亀島との間にある蓬莱山
大仙院にて、舟を表す自然石(小学生にいわせれば「あっ! ラッコだぁー」)

 実は大仙院に入ったところ、作衣を着たお坊さんが出てきて、案内をしていただいた。蓬莱山から落ちる滝が、左右に分かれていき、その水が右の方に流れて華頂窓の下を通り、それが舟を表す自然石(そのお坊さんは、「この間やってきた小学生が『ラッコだぁー』と言った」と語って笑っておられた)と、伏せている石(家内が、牛みたいと言ったら、それが当たったようで、びっくりしておられた)を通り、この間にある平らな石(泳ぐ亀)の脇を流れている。一方、蓬莱山から左の方に流れる石は、建物をぐるっと回って大河となるという。確かに、大河に相当する白い小石の庭には、ほうきの筋目が付いているだけで、石は全くなかった。そこで、下世話な話と断って、「この庭の小石を毎朝、均しておられるのは、大変でしょうね。どれくらいの時間がかかりますか」と聞いたところ、「後ろ向きでしなければなりませんし、落ち葉があったりすると時間がかかりますが、私ならまあ、20分ですね」といわれた。案外と短いので、びっくりした。また、我々の歩いた方丈の周囲の廊下は、今や剥げてしまっているが、かつてはすべて漆黒の漆塗りで、太閤秀吉や徳川家康が歩いたというから、我々も歴史の一員のような気がした。

「気は長く、心は丸く、腹を立てず、口は小さく、命は長く」の色紙

 方丈の床の間に細長い掛け軸がかかっていて、上から「気、○、腹、口、命」と書いてある。ただし、「気」の字の縦棒は長く、「腹」は横を向いており、「口」は誠に小さく、「命」の縦棒も長い。お坊さんが、「はて、『気』の字の縦棒が長いのはなぜでしょう」というので、私も家内も首を傾げていたら、「気は長くという意味です」とのこと。次いで「『○』は、心は丸くです」とのこと。「『腹』が横を向いているのは?」というので、これは簡単、私が「腹を立てるな」でしょうというと、大当たり。『口』は、小さくという意味で、そうすると最後に『命』が長くなるとのこと。まあ、子供だましだといえばそうだが、庶民のひとりとして、感化されてしまった。というのは、出口近くに、まるでミュージアム・ショップのごとき売り場があって、そこにこの色紙もあったので、つい買ってしまった。そうすると、たまたまご住職様が来られて、その色紙の裏に、私の名前を書いていただくとう名誉に預かった。実は、私の苗字は平凡だが、名前の方は難しい漢字を使っているので、未だ正しく読んでくれた人がいない。それが、ご住職は、さらりと正確に読んでいただいたので、感激は、ひとしおだった。さすが、名のあるお寺のご住職様だけのことはある。

高桐院に通じる自然石の敷石道

 さて次は、高桐院(こうとういん)である。こちらは、細川氏のゆかりの寺で、慶長6年(1601年)に建立された。細川忠興やその正室であるガラシャ夫人など一族の墓があるらしい。高桐院に至る小道は、両脇に木々の緑が美しい。その自然石の敷石道をたどっているうち、家内が声を上げた。「あっ、ここは、JRのポスターにあったところよ!」・・・帰りの京都駅でそのポスターを見ると、確かにその風景だった。ただし、木々の緑は、秋の紅葉に変わっている。なるほど、紅葉の季節の名所らしい。

高桐院の庭園「青葉の清冽、紅葉の華麗、冬の静寂」

 庭園に出た。真ん中に一本の燈籠がすっくと立っていて、その両脇には、まばらに楓の樹が生えていて、なかなかの年代物である。説明によれば、「青葉の清冽、紅葉の華麗、冬の静寂」とある。庭を前に、しばし茫然としていた。枯山水とはまた違った趣がある。広すぎず、狭すぎす、色目が多すぎず、かつ足りなすぎずといったところで、絶妙な楓樹の配置とも相まって、何か想像力が大きく解放される気がする。なるほど、青葉の季節でこれだから、確かに他の季節、特に紅葉の時期はもっと心地よさそうだ。

高桐院裏手のお庭

 そこから、方丈を回って裏手に出ると、お庭を散策させてもらえる。既に紅葉している木々もあって、それが地面の苔ともよく調和して、これぞ京都だという気分になる。ここまで拝観させていただいて、感謝したい。苔むした蹲もよい。楓樹の陰から、ふと人が出てきたりするので、思ったより庭が大きく感じる。心の中で、「これはすごい、いや、すごい」と何度も感嘆の声を出して、ゆったりした気分でお庭を巡った。すると、何と、裏手に墓所がある。これが有名な細川家代々のお墓である。中でも、正面の石灯篭は、三斎公とガラシャ夫人の墓石だという。家内がそばの説明を読んでいて「これは、すごいことが書かれているわよ」という。何かというと、こんな話である。「この石灯籠は、もともと利休秘蔵の天下一の称ある灯篭だったが、豊太閤と三斎公の両雄から請われて、利休はわざと裏面の三分の一を欠き、疵物と称して秀吉の請を退けた。のちに利休割腹の際、あらためて三斎公に遺贈したもので無双という銘を持ちまた別名を欠灯篭ともいう。さらに蕨手・灯口・横が欠けているのは、後日完全を忌む公自身が欠いたという記録があり、三斎公の面影が偲ばれる逸話である」とのこと。久しぶりに、京都にどっぷりと浸かった気持ちになったのである。

細川三斎公とガラシャ夫人の墓石である無双灯篭


9.西本願寺

 翌朝は、お昼には東京に帰らなければならなかったので、午前中しか見物の時間がない。コンシェルジェに電話して、西本願寺は何時から見学できるのかと聞くと、やや時間をおいて「午前6時から開門しています」とのこと。そんなことまで、よく知っているものだと感心した。それで、朝早くにタクシーで直接行ってみたところ、午前8時前だというのに、ちゃんと門が開いていた。


西本願寺の御影堂の御影門
西本願寺の御影門の脇の大燈籠

 私も家内も、普通の日本人としての知識と常識はあるつもりであるが、どうも物事を科学的に考えがちで、その結果として、特定の宗教に対する信心というものがない。ときどき、無条件で神の存在を信じられる人たちのことが、いささかうらやましく感ずるときもある。しかし、およそ日本に住まう限り、標準的な日本人としては、それで何の不都合もない。とりわけ京都は、仏教としてはありとあらゆる宗派があるので、寺社間でその教義を張り合い、信徒の獲得に努めるなどということは、相当昔ならばともかく、少なくとも現代にはそんなことは行われてない。

 そういうことから、こちらの西本願寺に対しても、普通の仏閣のつもりで厚かましくもずんずんと入っていったら、どうも様子が違うのである。別の言い方をすると、京都の普通の仏閣は、もう既に完全にといってよいほど観光地化しているが、西本願寺は、そんな観光寺のたぐいとは相当異なっていて、人々の現実の信仰の場となっているように思える。その証拠に、年配の方々が本堂に入って来て、深々とお辞儀をして、熱心にお祈りをしている。まさに信者さんそのもので、とても観光客とは思えないのである。


開祖親鸞聖人の遺影を祀る御影堂

 御影堂は、開祖親鸞聖人の遺影を祀っている。西本願寺のHPによると、「浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれたが、その後、室町時代に出られた蓮如上人によって民衆の間に広く深く浸透して発展」してきたという。うむ、日本史の授業で教わったとおりだ。その他、「他力本願」とか、「悪人正機」つまり「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というのもあったなぁ・・・と、二人して、懐かしがった。半世紀近くも頭の中に眠っていた日本史の知識も、こういうところで思わず口から出てくると知ったら、中学校の先生も、びっくりしたことだろう。もっとも、役に立たないところに現れてこそ、教養といえるのかもしれないし、さらにいえば、雑学の類である。

西本願寺の御影堂の明かり

 ところで、西本願寺の10年間にも及ぶ平成の大修理では、御影堂の柱も金箔を使って、それこそ金ピカに仕上げたとテレビでやっていた。それは、一体どこだろうと見渡すと、家内が「あれよ!」と、正面の柱を指差す。テレビでは、とても大きく感じられたが、そもそも御影堂自体がものすごく大きいので、目の前にありながら、つい、気がつかなかった。まあ、そんなものだろう。

西本願寺の樹齢約400年の『逆さ銀杏』


 それで、御影堂から出てきたところ、お堂の正面に、大きな銀杏があった。そばのお坊さんによると、桃山時代のものだから、もう400年近くも生えているらしい。西本願寺のHPによると、「まるで根っこを天に広げたような形から『逆さ銀杏』とも呼ばれる樹齢約400年の大銀杏は、京都市の天然記念物に指定されています。本願寺に火災があった時、この銀杏から水が噴き出して消し止めたという伝説から、『水吹き銀杏』とも呼ばれています。」とのこと。まあいいが、こういう伝説の類は、何百年も前の無教養な一般の民に対してならいざ知らず、この科学の発達した現代に生きる人々に対してまで大真面目な顔して言ってよいものか、いささかためらうところである。しかし、イワシの頭も信心からという諺もこれあり、まあ、その類なのかもしれない。その他、テレビで見た書院・飛雲閣を見たかったのだけれど、その特別公開は、残念ながら、10月12日からという。見逃してしまった。

西本願寺の御影堂門を横から眺める


10.京都タワー

 そこから、駅の方に向かったが、ついでに、京都タワーに登ろうということになった。確か、これが出来たのが昭和39年で、その頃は「古都京都の玄関口に、こんな派手な馬鹿なものを造るとは、とんでもない」などと、反対運動が繰り広げられた。それにもめげずにこうして立てられて、早や45年か・・・と思ったが、今やそんな経緯を知る人など、ほとんどいないだろう。あっという間に地上100メートルに到達し、周囲を見渡した。

京都タワーからの眺め〜北へ伸びる烏丸通り

 思いのほか、眺めがよい。正面の北へ伸びる道は烏丸通りである。その左手には、行かなかった東本願寺がある。望遠鏡で覗くと、東山の方向には、平安神宮の大鳥居や、清水寺の楼門がはっきりと見える。駅の方向を見ると、梅小路機関区やら、線路を隔てて東寺の五重塔が見える。新幹線が走ってきた。まるで、ブラレールのようなものである。ひとしきり見て楽しみ、京都駅に向かったのである。おみやげを何にしようかと迷ったが、きょうは赤福にした。あれほど騒ぎになったから、もう偽装はしていないだろう。

 新幹線で帰京途中、さすがに疲れが出て、すっかり寝入ってしまった。


京都タワーからの眺め〜東寺の五重塔




(平成21年9月29日著)
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