悠々人生のエッセイ、メンタルヘルスの問題

悠々人生のエッセイ、メンタルヘルスの問題

東大寺の盧舎那仏。いまや仏頼み、神頼みという時代でもなくなった。戦後の日本が目指していた「個の確立、自己実現」時代の厳しさよ・・・。

悠々人生のエッセイ、メンタルヘルスの問題


 あるところから、メンタルヘルスについてのパンフレットを入手したので、夏休みの暇な時期であることもあり・・・要するに特に急ぐ仕事もないので・・・それを読み始めた。すると、「なるほどそういえば、身近に思い当たることがあるなぁ」とか、「いまどきの社会の歪みの縮図のようなものだなぁ」などと思うことの連続だったので、それをここに書き残しておきたい。「→ 」は、私の思ったことである。

1.心の疾病で長期に休む人が増加している。

(1) 長期病欠者(1月以上病欠の者)で心の疾病が原因の者は、平成13年には全体の0.46%だったものが、18年には1.28%と、5年間で3倍になった。

→ つまり、100人いたとしたら、そのうち1人以上が心の疾病というわけだ。これは結構大きな数字である。

(2) ちなみに、長期病欠者のうち、心の疾病が原因の者は、20歳代で81.2%、30歳代で73.3%もいる。しかも、最近の若い患者の中には、従来のうつ病とは異なる症状が見られるようになり、たとえば、職場に出勤しても仕事はできないものの、自分の趣味や好きなことは問題なくできる。

→ いったい、何だそれは・・・。仕事の戦力にはならなくとも、自分の世界では楽しめるなんて、一種の社会的引きこもりではないか。しかし、そういう人が職場にいたら、その人の仕事を他の人がカバーしなければいけないから、正直いって大迷惑だろうなぁ・・・と思ったが、そういえば私のところにもいたことに気付いた。元々、内部を対象とした事務の仕事をしていた比較的年配の人だが、外部向けの広報の仕事に変わったとたん、いわゆるクレーマーの相手をして苦労してからというもの、一種のパニックを引き起こして出勤できなくなり、長期病欠となった。皆で心配していたところ、何とまあ、社交ダンスや料理で大活躍をしていると聞き、「それは果たして病気か、サボリの一種ではないか」と思ったことがある。でも、これって、やはり病気だったようだ。認識を改めなければいけない。しかし、本当の責任放棄やサボリと、精神病との区別をしてくれないと、人事管理もできないではないか。医者に行かせても、いいかげんな診断書を二つ返事で書きそうで、それも困ったものである。


2.職場の人間関係が希薄化して変わってきた。

 若い職員が変わった。自分から考えずに指示を待つ人間、組織への帰属意識が高くない人間、自己愛の強い人間が増えている。

→ 残念ながら確かに、上司の指示待ちでしか動けないような若い人は、増えている気がする。しかし、それをいう前に、「こういう場面であれば、このようなことが起こり、それに対処するために自分は、今これをしなければいけない」という一連の動作の前段階となる「局面の読み」というものがそもそも出来ないから、それに続く反射的動作も当然出来ないというわけだ。

 なぜだろうと考えてみたところ、ひとつ思い当たったことがある。息子が小学校高学年のとき、私に「ねえ、これをやっていいでしょ」と聞いてきた。それが何だったか思い出せないけれど、「なんでそんな簡単なことをいちいち父親の指示を仰ぐんだ」と思ったが、その直後、その細かいことを息子に対して一々指示している自分の姿に、愕然とした記憶がある。そのとき、「ああ、こんなことをやっていると、ウチの息子は事態を予測する力も育たない上に、他人の指示に従ってしか動けないロボットのような人間になりそうだ」と気がついたのである。家内にも聞いたのだが、そういえば家内も、幼児だった小さい頃と同じような感覚で、息子に細かいことまで注意を与えていたと言っていた。そこで家内と話し合って、子供に対しては、細かいことまで注意したり、指示したりすることは、一切やめることにした。

 子供の自主性や生活力を育てるには、これしかないと思う。反抗期に入ろうかという小学校の高学年にもなって、よちよち歩きの小さい頃と同じように手取り足取り親が一々口を出していたら、いつまで経っても自分に自信が持てないし、物事の先が読めない。そればかりか、未経験のことに戸惑ってしまって、自分なりに生活を工夫することが出来なくなると思うのである。昔のように、一家に子供が何人もいて親の目が届かずに、夕日が暮れるまでてんでに遊び回って家に帰って来ないような時代ではなくなった。今や、子供の数が極端に減ってきて、一家に一人あるいは二人の子供しかいないということになると、子供が親の目を盗んで何かするというようなことができなくなって、その一挙手一投足が完全に親の監視下に置かれてしまう。これが逆に、子供の自主性を殺いでいる大きな原因である。

 そんなわけで、子供が多少、汚れて帰って来たり、遅くなっても小言を言わないことにした。親としては、いささか勇気のいるところである。すると息子は好き勝手に遊び始めて、あるときなど、自転車に乗って自宅のある杉並区からはるか遠くの江東区まで遊びに行っていることがわかった。思わず「途中、危ないじゃないか」と小言が出そうになったが、堪えることにした。まあ、こういうところは、少子化時代でもあり、子供に何かあったりしたら、取り返しがつかないという危険性との隣り合わせなので、だれにでもお勧めできる方針ではない。

→ 組織への帰属意識が高くないというのも、管理に当たる者としては、はなはだ困った問題である。さりとて、一部の運動部出身者のように、組織への帰属意識が高いものの、文字通りの指示待ち人間だったり、逆にどこかとんでもない方向に行ってしまうというのも、これまた困りものである。これは、後においても指摘するが、最近の日本社会が組織力、団結力、ひいては社会の繋がりというものを次第になくしてきているという構造的な問題なのかもしれない。私が小さい頃なら、自分の家は父を中心に回っていた。そして、世間や近所の目を常に意識し、お天道様に恥ずかしい行為はしないというのが最低限の道徳だった。学校では先生は絶対的存在であり、会社では終身雇用が当たり前であった。まあ、それらが良いかどうかは別として、子供ながらにも自分は社会の中にしっかりと組み込まれているという意識を常に持っていたものである。ところが今や、家族に個食が増えているように家庭内はバラバラであるだけでなく、世間様の目があるなどという言葉は死語となり、学校は不登校やモンスターペアレントで権威を喪失している。それに輪をかけるように新聞や政党は、政治家をはじめ内閣や官僚機構の粗探しばかりをしてその権威を失墜させてしまった。会社も、不況や国際競争の激化で終身雇用制などというものは、とうの昔に廃止されてしまった。最近では新入社員の3割が2年以内にやめるという体たらくである。こんな時代に、組織への帰属意識を持てというのも、はなから無理な相談なのかもしれない。集団性と組織力という日本のよき伝統と国際競争力の源泉が、またひとつ失われてしまったようだ。

→ 自己愛の強い人間というのは、さて、どんな人間だろうと、首を傾げてしまった。英語でいうと、「narcissism」ということだろうか? そうだとすると、うぬぼれ、自己陶酔の激しい人ということだ。それとも、趣味の世界に没頭してしまって他人が目に入らないような、いわゆるオタクという連中か? 何だか、よくわからない。関係ないかもしれないが、こんなことを思い出した。若い人・・・といっても、入社後4〜5年は経っている人だったが、仕事で使う法律の文章を書かせてみたところ、あまりにひどくて、これでは全く駄目ではないかと、面と向かって書き直せと言ったことがある。すると、男のくせに、肩を震わせ、目元も緩んできているではないか。一体どうしたと聞くと、「生まれてこの方、親にも怒られたことがないので、どうしてよいかわからない」とのこと。この答えを聞いて、私はたまげてしまった。確かにこの人、東京の私立中高一貫校の出身で、東大法学部を卒業しているという学歴であった。しかし、「社会に出たら、仕事ができるかどうかだ。学歴など、名刺代わりにしかならない。学歴に頼るだけで努力せず、ポストに見合った実力を付けていないと、どんな人にもすぐに負ける」と言った覚えがある。おそらくこういう人は、ちょっとお勉強ができたことから、小さい頃より親や先生にちやほやされて、良い気分のままエスカレーターを駆け上がって今日に至っているに違いない。苦労や挫折というヤツを知らないわけだ。こういう人間には、映画の「おしん」でも見ろとアドバイスをすればよかったと思っている。


3.職場の雰囲気が変わってきた。

 会話が仕事に関係する話題だけに偏ったり、部下の家庭や性格がわからなくなったり、仕事をみんなで考えることが減った。

→ ふむ、確かにそうだ。昔は、その日の日付が変わろうとするときにやっと仕事を終え、それから、同じオフィスのメンバーで麻雀をやったり、カラオケや飲み屋に繰り出したりしていた。こうした職場以外の同僚との親密な付き合いを通じて、天下国家や家庭や子供のことなどを話し合ったものだから、お互いの家庭のことなどは筒抜けだったし、またそのようなことは当たり前と思っていた。職場でのレクリエーションと称して、ボーリング大会、麻雀大会、ゴルフ大会、運動会、職場旅行というのも、盛んだった。それに比べて今は、職場の仲間がお互いに疎遠になってしまったが、これは一体どうしてなのかと思う。個人情報保護法のせいかとも考えたが、あれは確か平成15年の施行だから、それよりもっと以前の昭和の終わり頃からそんな風になってきたのではないだろうか。まあこれも、親類どうしの縁(えにし)がいまだに強い華僑の社会などと違って、日本社会の人間関係が相互の繋がりをなくして、バラバラになってきた結果といえる。そういえば私が社会に出た頃には、職場で独身の人がいたら、必ずといってよいほど上司がお相手を紹介しようとしたし、そうでなくとも各町内には世話好きのおばさんがいて、結婚の仲介を買って出たことも多かった。今はそれが、インターネットで婚活をする時代となったが、マッチングの成功率という点では、雲泥の差だと思う。


4.上司の立場も変わってきた。

 これまで以上に人事評価を行う必要が生じてきており、その一方で余裕がなくなり、部下の性格、能力、経験を踏まえた指導、支援がなくなってきている。たとえば、突然、部下が職場に出勤しなくなった。そのとき、あなたはどうするか?

→ これを五択の問題にしよう。
 @ 部下の家まで行って、説得して出勤させる。
 A 部下の家まで行って、腕を掴んで職場にひっぱってくる。
 B 肉親にまず連絡をして、本人の様子を見てもらう。
 C 部下と親しい職場の人に、本人の様子を見てもらう。
 D 電話して欠勤届を出させ、出勤してくるまで放置し、それが何ヶ月の長期に及ぶようなら退社を勧める。

 上司の性格とかその部下の性格や能力、それに仕事の繁閑の具合というものが関係するだろうが、ひと昔なら、@を選ぶところであるが、現在では、とりあえず、BとCを併用するのが穏当なところであろう。しかし、このパンフレットにはそこまで具体的な方策が書かれているわけではない。それどころか、このような事態に至る前の「べからず集」が載っている。

 a) 部下の指導や教育に当たっては、相手の性格や能力を充分見極めたうえで、言葉を選んで発言すること。
 b) 実現不可能な業務の強要や私生活への介入(ライフスタイル、家柄、家族)や人権の侵害ともいえる言動は厳に慎むこと。
 c) 部下は、上司等の権限ある者からの言動に疑問を抱いた場合でも、正面きって反論しづらい立場にあること。
 d) 単なる指導上の注意であったとしても、いたずらに繰り返して注意しないこと。
 e) 単発の言動だけがその要因となるのではなく、上司等の仕事に対する姿勢や人間性あるいは日常の振る舞いが引き金になる場合があることを承知しておくこと。
 f) 職場においてパワーハラスメントが行われていないか注意すること。


→ まあ、ひとつひとつは確かにその通りだけれども、それでは一体、何を話せばよいのか、教えてほしいものである。それについては、特に何も書いていないが、その代わりに、また「べからず集」が載っている。これがまた、こんなことを言う上司って本当にいるのだろうかと思うほど、現実離れしているように思えるが、実はこれらは実際に労働事件の判例にあったような気がする。本当のパワーハラスメント事案なのである。

 a) 「死んでしまえ」「給料泥棒」などの暴言を吐く。
 b) 些細な失敗を執拗に非難する。
 c) 身体や正確の特徴を取り上げてなじる。
 d) 合理的な理由もないのにプライベートな事項を執拗に詮索する。
 e) 机を激しく叩いたり、書類を投げつけるなどの威圧的な行為をする。
 f) 暴力をふるう。
 g) 合理的な理由もないのに、仕事を全く与えない。
 h) 発言を無視したり、会議に参加させないなどして、職場内で孤立させる。
 i) 「あいつはどうしようもない」「無能だ」などの侮辱的な噂を流す。
 j) 私的な買い物など、仕事と関係のないことを強要する。


→ いやまあ、これはまた、激しいものである。もちろん、そのような言動をしたりすると、ただちに労働審判に持ち込まれそうなことは誰にでもわかるが、ではどうしたら良いの?という問いに対しては、次のような答えが書かれている。


5.コミュケーションに取り組むこと。

 超過勤務を縮減したり、仕事の進め方の適正化によって職場のストレスを軽減することが第一だが、これはすぐに取り組めるというわけではない。そこで、職場のコミュケーションを良好にし、部下の相談に乗るようなことはすぐに取り組むことが出来る。飲み会の減少や電子メールの発達により会話が少なくなってきている現在、「仕事以外の会話」を交わすことが出発点となる。まずは、朝の挨拶から始めたい。

→ 朝来て、職場の人たちに挨拶するぐらいは当たり前の習慣ではないかと思うのだが、どうやらそうでもなくなって来ているというわけか・・・世も末だなぁ。そういえば、私の友人のオフィスでは、課長と課長補佐が、机が隣り合っているというのに、電子メールで会話していると聞き、アホなことだと思ったことがある。しかし、今や別に珍しくもない風景なのだと知った。挨拶と会話という人間のコミュニケーションの基本までもが危機に瀕しているとは思わなかった。


6.いつもと違う部下を発見したときどうするか。

(1) まずは声をかけて、部下の体調の確認を行う。その場合の言い方として、
 @ 私から見ると、疲れたように見えるけど?
 A 最近、睡眠は十分にとれているかい?
 B 集中できないように見えるけれど、何か心配ごとでもあるのかい?

(2) こうして体調の確認をしながら、いつもとの違いを客観的に伝え、本人の困っていることに対して支援する姿勢で聴く。うつの可能性があるので、この段階では安易な励ましや気持ちの問題としないこと。

(3) その聴くときの心構えとして、
 @ 身体症状から尋ねる方が抵抗が少ない。
 A 悩みは何か、いつから悩んでいるか等を話してもらう。
 B このとき、本人の気持ちになり、何故そう言っているのかまで考えることが重要である。
 C 相談はプライバシーに注意しながら、余裕をもって聞くこと。
 D 口外しないように言われたら、できるだけプライバシーは守るが、本人の利益を考え、状況によっては自分の判断で関係者や専門家に相談することがある旨をあらかじめ伝えておく必要がある。
 E 結論を急がないこと。その場で原因追究をしないこと。
 F 上司ひとりが抱え込まないで、専門家等と協力すること。


→ たいていの上司なら、どこの職場でもやっていそうなことだけれど、こんなことまで、マニュアル化する時代となってきたのは、いささかどうかという気になってきた。

(4) 上司のしてはいけない対応
 @ 部下の価値観を認めず、世間一般の常識を押しつけてしまう。
 A 部下の相談を聞かないで、自分のことばかり話してしまう。
 B 部下の相談に一緒になって困ってしまう。
 C ただ一緒に酒を飲むだけ。


→ これを読んで、思わず笑ってしまった。世の中、こんな上司ばかりではないか。私の見聞きしてきた範囲でも、あの人は頭が固かったから@のタイプだ、あの人物は気が弱かったから確かにBのタイプだったなぁと、具体的なの顔が浮かんでくるところが面白い。これらのどれかに当てはまってしまったら、それこそ万年課長さんというわけだ。

(5) うつへの対応
 @ 従前より、うつ病の場合は次のような対応は望ましくないとされていた。
  a) 「頑張れ」などの激励をする。
  b) 「そんなことでどうする」という批判がましいことを言う。
  c) 「そんなの気持ちの持ち方の問題だ」「気にしないことが大事」など気分の問題にする。
  d) 「もっとしっかりしないと」「努力が足りない」など努力の問題にする。
  e) 「その話はともかくとして」などと話をはぐらかす。
  f) 「レクリエーション、旅行」などの気分転換を勧める。
 A しかしながら最近、うつ症状が多様化しており、従来通りの対応が必ずしも適切ではない場合もある。知識をうのみにせずに、早い段階で専門家に相談し、その人に適した対応をとる必要がある。


→ @のことは、もちろん知っていたが、Aのように書かれると、いささか混乱してくる。それでは、どうしろというのか? 相手によっては、激励したり、気分転換を勧めてよいのか? 先述のようにパニック障害で自宅に引きこもっていると思いきや、実は社交ダンスや料理で大活躍などという不思議な例のことを思い出してしまった。世の中、ますます複雑になってきているようである。パンフレットはまだまだ続くが、この当たりでやめておこう。



(平成21年8月 3日著)
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