悠々人生のエッセイ



Little Garden 季節や行事のイラスト市場さんより




 私は、「あんこ」の類に目がない。この点は家内と同じ趣味といってよく、夫婦円満に役立っている。たとえば、自宅の近くには買い物客が列をなす鯛焼き屋さんがあるが、その店の前を二人で通りかかると、何も言わなくとも以心伝心、気がつくと二人でその列に加わっている。また、上野方面へフラフラと向うと、いつの間にか甘いもの処「みはし」に向かって歩いていて、これまた気がつくと二人で店内に座ってメニューを見ている。そうでないときは、上野御徒町のうさぎ屋のドラやきを買って帰る。

 あるいは、同じ区内に娘夫婦が住んでいるが、そちらに立ち寄るついでに、その近くの「文祥堂」で列を作って大福を買ったりする。また、最近、見つけたのだが、二人でよく行く「巴屋(ともえや)」という蕎麦屋で、「蕎麦がきぜんざい」なるメニューを見つけた。先月、年末の宴会のやり過ぎのために二日酔い気味のときに、巴屋に行ってもあまり食欲がわかない。しかし、朝食抜きだったので、何か食べる必要がある。そういうときに、このメニューを思い出して、「蕎麦がきぜんざい、二人前!」と頼んでみた。蕎麦屋のおばさんは、目を白黒していたが、「一杯のどんぶりに入れてくれれば、結構です」というと、そのまま調理場に伝えてくれたようで、しばらくして蕎麦がき入りのぜんざいのどんぶりが出てきた。それを見たところ、どういうわけか食欲がわいてきて、一気にペロリと平らげることができた。それで、二日酔いがすっかり治ったような気がしたのである。

 なんで、こうなっちゃったのだろうかと、つくづく考えてみると、これはひょっとして、私の祖母が作ってくれた「おはぎ」が原点なのかもしれないと思い当たった。私が小さいころには、日本全体が貧しかったから、たいしたお菓子はなかった。そういう時代、田舎からよく祖母が出てきて、我が家にひと月ほど滞在するのが年中行事のようになっていた。そのときに、必ず作ってくれたのが、田舎風おはぎ。中にお餅が入り、それを粒あんで包んだ大きなおはぎである。今時、そんなに大きなおはぎを売っているのは見たことがないが、子ども心に、こんな美味しいものはないと、たくさんごちそうになったものである。

 小学校の高学年のときには、私の家は三の丸町といって、お城のお濠の近くにあった。周りには家が立て込んでいたのだけれど、どういうわけか一軒だけ、小さな工場があって、菓子パンを作っていた。それが小倉あんぱんで、しかも私の好きな粒入りときている。工場直販だから安くしてくれていて、たった5円だった。グリコのキャラメルよりも安いので、私はよく買いに行ったものである。私の体が大きくなったのは、このせいかもしれないと、今でも思っている。

 中学生のころから名古屋に住むようになったが、名古屋には、「小倉サンド」というものがあって、喫茶店の定番メニューとなっている。普通のサンドウィッチに、小倉のあんこを挟んだシンプルなものだけれども、これが、祖母手製のおはぎの次に私の好物となって、すきっ腹を抱えた中高校の往き帰り、よく食べたものである。ところが上京してから、東京の喫茶店で小倉サンドを探したものだが、そんなもの、どこにもない。「これこれ、こういうものだけれども・・・」と説明しても、「ええっ、食パンにあんこを挟むの? あぁ、気持ち悪い!」といった反応が返ってくるだけ・・・。ははぁ、あれは名古屋だけの地域限定メニューなんだと思い知る。

 それから、結婚して子供が出来てからは、甘いものといえば、ケーキとなった。その頃は杉並区に住んでいたので、仕事の往き帰りには新宿を通る。そのころに、小田急の地下に「タカノ」というケーキ屋があって、そこで苺のショート、モンブラン、シュークリームなどを買い込んで、せっせとウチに持ち帰った。甘さを控え目にしていて、なかなか良い材料を使っている。子供たちの背が高くなって、そこそこの頭と体格になったというのも、このケーキがある程度、寄与しているのではないかと思っている。

 子供が小さい頃に一時、東南アジアで生活したことがある。甘いものはもちろんあるが、とてつもなく甘い。本当に甘すぎるのである。どうやら、遠来の客には、とんでもなく甘いものを出すのが礼儀であると思い込んでいる風があって、我々日本人の味覚の常識を超えている。その中にあって、あるとき「キミサワ」という日系のスーパーが開店した。そこに行ってみると、なんとまあ、小倉あんぱんが売られている。それも、純日本風のもので、現場で焼き上げてくれる。これには一家そろって感激して、よく買いに行ったものである。

 また、東南アジアには、どこにでも中華料理店がある。肉料理や魚料理、豆腐料理や鍋料理をたらふく食べ終わった後、デザート・メニューを持ってくる。もう、これ以上食べられるないと思っても、ふとメニューを見ただけで、あれあれ、不思議なことに、なぜか食べたくなってくる。あたかも、デザート用に胃の一部が、そのスペースをちょっと開けてくれたかのごとくである。それで、何をよく頼んだかというと、マンゴー・プリン、海ガメの甲羅のゼリーなんていうのもあったが、私は、スゥート・ビーン・スープ(英文では、Red Bean Soup)・・・何のことはない、中華風おしるこである。あまり甘くはなくて、ちょっとザラザラした舌ざわりだけれども、まあまあ、日本のぜんざいの代替品になり得る。しばし、懐かしい日本を思い出すことができる幸せなひと時となった。

 きょうは、いったい何を言いたいのかと言われそうだが、いよいよこれから本日の話題である。先日、出雲に行ったとき、不思議なぜんざいのおみやげを見つけた。その袋には、こう書いてあったのである。

出雲ぜんざい〜古式伝承〜神在餅
 ぜんざいは出雲国神事の折りに振る舞われた「神在(じんざい)餅」に起因しています。

ぜんざい発祥の地
 出雲地方では、古来旧暦の十月に全国の神々が集まり、「神在祭(かみありさい)」と呼ばれる神事が執り行われています。その神事で振る舞われたのが「神在(じんざい)餅」です。その「じんざい」が出雲弁で訛って「ずんざい」さらには「ぜんざい」となって京都に伝わったと言われています。出雲が「ぜんざい」発祥の地であるということは、江戸初期の文献「祇園物語」や「梅村載筆」、幕府の大学頭であった林羅山筆の「雲陽誌」にも記されています。

日本ぜんざい学会
 日本ぜんざい学会は、「ぜんざい」発祥の地は出雲にあるという史実に基づき、その真実をさらに探求するとともに、世界に誇れる和の食文化「ぜんざい」の歴史と味覚を世界に情報発信し、あわせて「神話の舞台・出雲」の魅力を広く伝えることを目的に活動を行う団体です。




 面白いので、そのレトルト・パックを買って帰ってきたが、それにつけても思い出すのが、大学時代の同級生である。初めて話したときに、この人は東北出身なのだろうかと思うほど、完璧なズーズー弁を話していた。ところが、出雲出身なんだという。そこで、ああ、これは松本清張の名作「砂の器」の世界なんだと思い出した。現にそれを耳にして、びっくりするやら感激するやら・・・。大学って、本当に面白い世界だなぁと思った記憶がある。ちなみに、この友達は、大学を卒業するまでついに、そのズーズー弁を直すことはなかった。それでどうなったかというと、彼は結局、裁判官になった。そして、ときどき法律雑誌に投稿するようになったので、「ああ、彼か、活躍しているなぁ、よかった」と思ったものである。そして、ある法律問題で、彼と20年ぶりに顔を合わせることになった。「いやぁ、久しぶり」と、お互い、肩をたたき合ったのだが、そしてすぐ、気がついた。彼の出雲弁は跡形もなくすっかり消えて、完璧な標準語に変わっていたからである。懐かしさが、ちょっぴり、消えてしまったのは残念である。

 それはともかく、ぜんざいの語源の話に戻るが、「じんざい」→「ずぇーんざい(出雲弁)」→「ぜんざい」→京都で定着というのが、日本ぜんざい学会の主張のようである。これに対して、「ぜんざい」の語源は仏教用語の「善哉」(よきかな)にあるという説もあるという。ウィキペディアによると、「一休宗純が最初に食べたとされ、あまりの美味しさに『善哉』と叫んだとする説。『善哉』とは仏が弟子を褒める時に使う言葉である。」 なるほど、こちらも、なかなかよく出来た話である。どちらかに軍配を上げるには、証拠が不足しているが、「善哉」説は、いささか出来すぎの感がある。そこで、江戸初期の文献に載っているらしいし、その裁判官の友達にも免じて、私は、出雲発祥説を信じることとしたい。これから、ぜんざいを眼にしたら、「おおっ、出雲!」と思って、美味しくいただくことにしよう。




【後日談】 酬恩庵一休寺の善哉の日


 先日、1月25日だったと思うが、テレビのニュースで、京田辺市に「酬恩庵一休寺」という寺があり、「一休善哉の日」を年中行事として行っているという報道があった。

 「平成17年より1月最終日曜日を『一休善哉の日』として、その一年間の各人毎の誓いの言葉を奉納してもらいます。その一年の自分自身の目標を新たにし、一年間その言葉を持って、生きていく力づけにしようとするものです。そしてその後、一椀の善哉がふるまわれます。ひとりひとりの誓った善き行いの実現を後押しします。

 一休禅師は1月1日生まれ、大徳寺の住職からお餅の入った小豆汁をごちそうになり「善哉此汁(よきかなこのしる)」とおっしゃったことから善哉となったと言われています。

 一休善哉の日は、ひとりひとりのこころに存在するエネルギーにわずかながらも灯りをともし、21世紀の世界を地球の片隅からより善き世の中に方向づけられればと始めることになりました。」

ははあ、なるほど、なるほど、出雲に負けず劣らず、こちらの方もなかなか由緒正しそうである。何よりも、ありがたーい気がしてくる。はてさて、困ったものだ。これではまるで、出雲の神々と一休さんとの神学論争ではないか・・・。根拠なしに、いずれかに軍配を上げるということもできないし・・・。

 一休さんは、1394年に生れ、室町時代に生きて1481年に亡くなった僧侶で、1467年には応仁の乱があったという激動の時代である。この一休和尚、既成の観念や権威を振りかざすものが何よりも嫌いで、反骨精神に富んだ、なかなか面白い人だったようだ。たとえば、一休寺のホームページには、こんなエピソードが載っている。

 「小僧時代を過ごしたお寺の和尚が自分だけ鯉汁を食べ、一休さんたち小僧には、味噌汁しかやらなかった。そこで一休さんは池から大きな鯉をとらえ、料理しようとした。すると和尚は『これこれ!殺生はしてはならぬ!』ととがめた。すると一休さんは『毎日精進料理ばかりでは、お経にも力が入りません。この鯉にはちゃんと引導を渡しますので、大丈夫でございます。』と言った。一休さんの生意気な言葉に『引導の渡し方など知っておるのか』と和尚が問うと、一休さんはこう言った。『汝、元来生木の如し、水中にある時はよく捕うること難し、それよりは愚僧の腹に入って糞となれ、喝! 』」

その他、「『はし』をわたらず『はし』をわたる」や「毒を食べ、死んでおわびを」という、小さい頃に読んだり聞いたりしたトンチ話が掲載されている。確かに、今でも、こういう反骨の塊でありながら、妙に知恵が回るから、他人に憎まれないようなタイプの人を見かけることがある。

 再び、ぜんざいの話に戻るが、どちらが本家かといわれても、いやはや、困ったものだ。強いていえば、一休さんが生きたのは「室町時代」であるが、出雲地方では「古来旧暦の十月」に全国の神々が集まり、神在餅がふるまわれる神在祭なる神事が執り行われたというのであるから、それは室町時代よりはるかに前ではないかと推論するのが適切だろう。そうやって、出雲から京都にもたらされたぜんざいを、大徳寺の住職が一休さんにふるまったところ、そのうまさに感激した一休さんが、「善哉此汁」と言った。その仏教用語の使い方のうまさに感心した大徳寺の住職が、この話を広めた・・・というのが真相ではないかと思うが、いかがであろうか。それなりに両者の顔が立つように思える。

 いずれにせよ、そのうち機会があればこちらのお寺にもお邪魔して、ぜんざいを味わってから、応援する方を決めることにしよう。もちろん私としては、味の良い方を押すに決まっている。


酬恩庵一休寺の2009年の善哉の日ポスター



(平成21年1月20日著、2月3日追加)
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