This is my essay.



長寿禅寺の紅葉と名月院の本堂の円窓





 朝起きて、「きょうは、土曜日だ。あぁ、もう来週から12月になる。年月が過ぎるのは早いなぁ」と思ったとたん、あまり脈絡はないが、「そうだ。鎌倉へ紅葉を見に行こう」と思いついた。家を午前10時半頃に発ち、正午前にはもう北鎌倉の駅頭に立っていた。駅のすぐ目の前は、円覚寺である。「そういえば、2年前の夏にもここに来たけれど、この辺一帯を歩いておしまいだった」と思い出した。そこで、「今回はもっと回って、できれば長谷大仏まで行ってみよう」と考えたのである。

 北鎌倉の駅を出て、円覚寺 → 名月院 → 東慶寺 → 長寿禅寺 → 建長寺 → 鶴岡八幡宮という順に回っていったら、もう日が暮れてしまい、とても長谷大仏までたどりつくどころではなかった。計画倒れとは、まさにこのことである。しかし、円覚寺、東慶寺、それに長寿禅寺などの紅葉は、思わず目を奪われるほどの期待通りの美しさである。とても充実した一日を過ごすことができた。ひとつひとつのお寺を、じっくり見て回ったので、それを思い出してみたい。

円覚寺総門,円覚寺は、蒙古を撃退した執権、北条時宗が開基

 「円覚寺」は、建長寺とともに、いかにも鎌倉のお寺らしい古刹である。歩いてみると、建物の配置や形が、実にすっきりとしている。いただいたパンフレットによれば、このお寺の縁起は、こういうことらしい。「約700年前の鎌倉幕府の執権、北条時宗は、襲来した蒙古を撃退することに成功したが、その時の彼我の死者を弔うためにこの寺の建立を決めた。開山は、宋から渡来した無学祖元(仏光国師)で、その孫弟子の夢想疎石(天龍寺)らとともに、禅で隆盛を極め、仏光派と称された。」 ずんずんと参道を真っ直ぐ歩いて行き、右にある三門、仏殿、大方丈の脇を通る。左手には紅葉がたくさんあって、その赤くなった紅葉を透かすように青い空を見上げると、なかなか綺麗だった。初夏に来たことがある妙香池が、紅葉に映えていて美しい。

明月院の赤いマフラーがかけてあった仏の座像
 次に訪れた「明月院」は、もともと紫陽花寺として有名なので、私も梅雨の季節に来たことがあるが、今回は紅葉の季節の参拝である。パンフレットによると、この寺は、「平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊道の供養のため、子の首藤刑部太夫山ノ内經俊によって、いまから830年前の永暦元年に創建された。その後、康元元年(1256年)に北条時頼がこの地に最明寺を建立し、その子の時宗がこの最明寺を前身として建長寺の開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を迎えて禅興寺を再興した。禅興寺は足利氏の保護を得て、室町期には関東十刹の一位に列せられるなど繁栄した。明月院はその塔頭(たっちゅう)のひとつで、支院の筆頭格であったが、明治初年になって禅興寺そのものが廃寺となり、明月院のみが残った。」という。そういう歴史があるからか、この寺は円覚寺や建長寺のような、いわば大規模にブランド化した寺とは異なり、我々には家庭の延長のような、どこか身近な雰囲気がある。本堂の円窓から覗き見るような趣向もいいし、小さな枯山水も、よくまとまっている。それに今回は、仏の座像に、赤いマフラーがかけてあったのを見つけて、微笑ましい気持ちとなった。

東慶寺の紅葉

 円覚寺と横須賀線の鉄路をはさんで反対側にある「東慶寺」は、いうまでもなく縁切り寺・駆け込み寺として有名で、女性側からの離婚が簡単ではなかった封建時代にあって、夫から逃れようとしていた数多の女性の受け皿となったお寺である。開山は北条時宗夫人の覚山尼で、弘安8年(1285年)に開創。明治に至るまで男子禁制の尼寺であったが、現在は男僧寺という。江戸期の三行半(みくだりはん)の時代ならいざ知らず、とりわけ戦後の新民法の下では役割を終えたのであろう。一筋の坂をひたすら登っていくような簡単な構造のお寺である。本当にこんなコンパクトなお寺でたくさんの女性を匿うことができたのか、にわかには信じがたいほどである。まあ、それはともかくとして、今回は色とりどりの紅葉を楽しむことができた。

長寿禅寺の紅葉

 その次、たまたま立ち寄ったのが「長寿禅寺」である。この日は特別公開ということで、普段は公開していないそうだが、それだけに、お庭がなかなかのものであった。着いたときには既に日差しが傾いてしまっていて、良い写真は撮れなかったものの、座敷の緋毛氈の上で、裏手の枯山水と紅葉、そのさらに奥にある美しく剪定された庭などを見て、しばし時が経つのを忘れた。紅葉は、こちらのお寺のお堂のさらに裏手にあったものが、最高だったように思う。

 「建長寺」は、いわずと知れた鎌倉五山第一位の臨済宗建長寺派の大本山である。パンフレットによると、来日した中国僧の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として、北条時頼が建長5年(1253年)に創建したお寺で、我が国最初の禅の専門道場である。中国式のスパルタ教育だったようで、その教えは「鞭影を見て後に行くは即ち良馬に非らず、訓示を待て志を発するは実に好僧に非らず」などといったものらしい。現代の会社でいえば、新入社員に対して、「いちいち言われなくとも、自分で何をするか考えよ」とでも訓示しているようなものだと、可笑しかった。

建長寺の三門

 最盛期には塔頭が49院あったが火災により焼失し、現存する建物は江戸時代以降に再建されたり移建されたりしたものだという。 総門、三門、仏殿という主要な建物が直線に並ぶ伽藍の周囲を10の塔頭寺院が取り囲む構造となっている。本来であれば、ここで座禅でも組めば、有難味が増すというものであるが、何しろ正座ひとつで痛がっている私としては、どうも気が乗らない次第である。なお、建長汁(けんちんじる)は、ここ建長寺発祥の料理であることを始めて知った。

 さて、建長寺を出てさらにだらだらと歩き、「鶴岡八幡宮」に着いた。こちらの由来は、HPによると「康平6年(1063年)源頼義公が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180年)鎌倉に入るや直ちに神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、建久2年(1191年)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。」とのこと。行ったのがたまたま晴れた暖かい日で、真っ青な空に御社殿の朱色と銀杏の黄葉が映えて、本当に美しかった。駅に向かう途中の参道で、花嫁行列に出会ったが、こういう神聖な場所での結婚式は、さぞかし良い記念になったことと思う。

鶴岡八幡宮




(平成20年11月29日著、12月1日追記)
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