This is my essay.








 1月も既に下旬となり、私にとってこれから忙しくなりそうな時期となる。いざそれを前にすると、家内とどこかへ行って骨休めでもしようかなという気が起こり、ふぃっと二泊三日の予定で大阪と京都に出かけた。わずか二日前に急に決めたので、一休さんのサイトを見たり、ホテルのサイトを直接見たりして予約をとったのであるが、短時間で思い通りにとることができた。ついひと昔前はわざわざ旅行会社の支店に行ったりしたのだが、こんな便利な世の中になるとは思わなかった。インターネットのおかげである。見物に行きたいところと、交通の便利さ、いろいろな宿泊プランなどを比較して、大阪は新梅田のウェスティン大阪、京都ではこれまたウェスティン都ホテルとした。同じグループのホテルとなったのは、偶々そうなっただけであり、深い意味はない。サンプルはたった二つだが、どうもこのウェスティンのロケーションを見ると、その立地ポリシーはこうではなかろうか。つまり、本当に便利なところからちょっと離れたところに位置するものの、実際に行ってみるとそう不便でもなし将来有望な場所を選んで営業をしているようにみえる。

 大阪では、積水ハウスのやっている新梅田シティが気になっていたので、わざわざそこにあるウェスティン大阪に泊まった。大阪駅からバスに乗ると便利だが、いざ歩こうとすると、時間はそうかからないものの、とんでもない地下道を通らされる。しかし将来この貨物駅が整備されれば一流地区になる。このあたりの地理の読みがウェスティンらしいところである。ご覧のとおり、新梅田シティには地上40階がそびえ建っている。その二つの建物を跨ぐように作られている空中展望台に登ってみると、別に高所恐怖症というわけでもないのに、結構こわい。途中で透明なエスカレーターに乗らなければいけないことに加えて、てっぺんでは360度の景色を見られるが、何しろ吹きさらし状態なものだから、風は吹きまくり、肌を刺す。ただまあ、1月にしては12度という暖かい天気だったのが幸いして、しばらくすると下界を見下ろす余裕ができてきた。「おお、あれが淀川だ、阪急とJRの鉄橋がかかっている」とか、伊丹空港に降りていく飛行機を眺めたりとか、高速道路を走るバスやトラックがミニチュアのように見えたりとかで、楽しめるようになった。人間、なんでも慣れである。


 その空中展望台の見学を終えて同じ建物の地下一階に下りてくると、たちまち仙人から凡人に早変わりしたような気になる。というのは、その地下に、滝見小路と称して、昭和30年代のレトロな雰囲気の飲屋街が広がっているからである。「おやまぁ、ちょっと一杯」という雰囲気の私に、「あの赤いポストが懐かしいわぁね」と家内がいえば、ふと我に返り、「ダイハツのミゼット???うむむ、よくこんなものが残っているなぁ、それにしてもこんなに小さかったっけ」という私、「あれっ、ビクターのワンちゃんがいる」と思えば、手押しポンプの井戸があり、牛乳箱が軒先にあって……まるで、映画 ALWAYS 三丁目の夕日の世界である。



 泊まっているホテルのすぐ横に、そんな変な世界がてっぺんと地下にあるなんて、誠に不思議な気分である。ホテルの一階には、アマデウスというレストランがあり、そこで朝食をとった。周りには、われわれのような年配客のみならず、小さな子供連れの若い夫婦が結構いて、それぞれに食事を楽しんでいる。家内が、「あの小さな子たち、騒がないでちゃんと作法を守ってバイキング食事とりにいってるわ。相当慣れている感じね。若くしてこういう所を日常的に利用できる階層と、逆にその日暮らしのワーキングプアの階層とはっきり分かれてしまったのよね。サラダのドレッシングのように昔はよく混ざっていて一色だったのに、その瓶を長い間そのままで置いておいたら、いつの間にか二つか三つの層に分離してしまったようにね。」と語っていたが、まったくその通りではないだろうか。



 さて、ホテルから大阪見物に出かけようかということになった。私はもとより海や魚が好きなものだから、家内にどこへ行きたいのと聞かれて、即座に海遊館と答えた。地下鉄で簡単に到着した。着いてみると9メートルの水槽の中で悠々と泳ぐジンベイザメがいる。期待どおりである。多くの小魚を引き連れて、水槽を行ったり来たりしているその姿に釘付けとなり、しばし楽しんだ。あまりに大きいので、写真の対角線上でなければ全身は写らない。横長の大きな口だが、主食はプランクトンと小魚とのことで、体は大きい割には人畜無害なサメらしい。それを証拠に、たぶんマイワシらしい小魚を数多く引き連れて泳いでいる。「小魚たちは、大きなジンベイザメの近くにいれば、ほかの魚に食べられることもあまりないと思って集まっているのだろう。寄らば大樹の陰というわけだ。この戦略は、人生にも当てはまる。ただ、いつまでも小魚でいられるわけでもなく、そのうち体が大きくなるので、さてそれからの生存戦略がどうなるかだが………。」、そんなことを考えていると、脇に大きな水槽があり、そこに大きなマンボウが入っていた。どら焼きをやや縦長にして上下に大きなヒレを付けたこの魚、なかなかユニークである。写真を撮りたいが、入っている水槽が小さいので、焦点を合わせたと思ったらもう尻尾しか見えなくなり、とうとう、うまく撮れなかった。



 それが終わると、皇帝ペンギンの部屋に行った。誕生した赤ちゃんの子育てというのが宣伝文句なのだが、実際に覗いてみると、皆大きな鳥ばかりなので、いったいどれが赤ちゃん?という感じである。ひょっとして、あのペンギンの前にいる、親より大きい熊のぬいぐるみのようなヤツがそれなのかなと思うと、やっぱりそうだった。周りの人たちも「あんな子供なんて……」と、あきれ顔である。確かにねぇ。自分より大きなテディベアのぬいぐるみに、お母さんが背伸びしてエサを口に放り込んでいるようなものである。説明書きによれば、これは生後90日のヒナとのこと。



 少し説明を飛ばすが、翌日は大阪から京都に行った。西の京を散歩していて、これまで訪れたことのないお寺に行こうとして地図を見たところ、仁和寺があったので、そちらに出かけた。龍安寺の近くにあり、実に立派な門構えである。徒然草によると、確か、戯れに頭に鼎をかぶった坊さんが、抜けなくなって大騒ぎをしたという寺である。私の学生時代の友だちの話では、「雪降る日に行ってみたら、若い坊さんが灯篭相手にシャドゥボクシングをしていた。」というから、「おお、それはこの寺の伝統は生きているな。」と大笑いをした記憶がある。説明によると、ここは御室仁和寺の門跡寺院として格式が高かったことから、明治時代まで多くの親王が入山したという。別名を「御室御所」といい、寛永年間の皇居建て替えに伴って、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが下賜されて、境内に移築されていることから、寺内には御所の雰囲気が漂うとのこと。確かに、その通りであるが、冬はさぞかし寒かったのではないかと思う。徒然草に「住まひは夏を宗とすべし」とあるが、このくだりは、昔からどうも解せないままでいるところである。



 見学中に、団体旅行のご一行とたまたま順路が同じになり、若い坊さんの元気な説明が聞こえてくる。この団体客の中には、世慣れたおじさんがいて、若い坊さんが「ここは門跡さんしかお使いにならしまへんお部屋どっせ。」と説明すると、「すると、そのうちあんたも使うやん。」などと言って、その坊さんを赤面させたりしていたのが、おかしかった。この寺の境内は、御所の造りと同じで、庭にはちゃんと右近の橘、左近の桜がある。冬なのに橘の葉は青々としているが、やはり桜は葉が全部落ちている。その横を歩いていくと、廊下でも何でも、外気むき出しのところだから、足の裏が寒くてかなわない。この辺が冬の京都観光のつらさである。そこで、見学もそこそこにして、四条河原町の先斗町と花見小路に行った。祇園コーナーというものが設けられていて、小一時間ほどで、花道、お琴、狂言、京舞などのさわりを見せてくれるらしい。

 花見小路に先にある演舞場に、その小劇場があり、二人で入ってみた。京都伝統伎芸振興財団がやっている模様。日曜日の夜のこととて、あまりお客が入っていない。三分の一が外人というところか。茶道、琴、華道、雅楽と続いて、わかりやすかったのが狂言である。演題は棒しばり。主人が留守の間に酒を飲む太郎冠者と次郎冠者。主人が一計を案じて二人を縛って出かけた。その留守中に二人は協力して不自由な手で何とか酒を飲み、詠い踊るという筋書きである。



 最後に、二人の舞妓さんによる京舞は、実によかった。祇園に来たという感じである。数年前に、先斗町のお茶屋で同級生たちと遊んだことがあるが、それ以来のことである。二曲踊ってくれて、最後が祇園小唄である。それが終わると、これらの舞妓さんと写真を撮ってくれるサービスもあった。家内と二人で写真に収まり、幸せな気分でホテルに帰ったのである。



 翌朝、さあどこに行こうかと家内と相談し、ホテルから東西線で行ける宇治の平等院にした。大雑把にいうとここには10年おきごとに来ているので、今回は5回目ぐらいの訪問ということになる。「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」などと、この世での栄華を極めた藤原道長が亡くなった後、その子頼通が、1052年に仏寺に改めて平等院としたもの。この年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していた。その翌年の天喜元年には平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)が落成し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって作成された阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされている。つまり、千年前に建立された建造物ということになる。



 池から正面に見える阿弥陀堂を眺め、そして堂の中に入って阿弥陀如来像を見上げ、その端正でふくよかなお顔を拝し、天井周辺の雲に乗った天人仏像群を眺めて、しばし思いにふけった。神社でざわめく人たちに囲まれてお賽銭を投げるというより、私はこのようなゆっくりとした雰囲気で文化財を眺めて黙考するという方が好みに合っている。時間が許せば、このような仏像を眺めて来た方、行く末に思いを馳せるのが趣味なのであるが、今回は寒いし案内人に急かされるしで、早々に退出した。でも、平安時代のように周囲に何もないところで、金色の阿弥陀仏と光背、天井には金色の格子と色鮮やかな天人仏像、紅殻色の柱などに囲まれて西方浄土を夢見る平安貴族の心持ちを想像することができた。ところが、今回はお堂の近くに鳳翔館というものが建っていて、建立当時のお堂の中がCGで見られるようになっていた。便利というか何というか。それに修理のためか、それとも展示のためか、お堂の中にあった天人仏像群の一部が外されて間近に置かれていて、じっくり眺めることができた。こちらも、一体一体が精巧な出来で、こんなものが千年前に作られたとは、誠に驚くほかない。楽器を持っている天人が多いが、面白かったのは中にアコーディオンのようなものを持っていた天人がいたことで、これは、その原型なのだろうか。

 平等院のあと、どこに行こうかと相談し、近くの黄檗山萬福寺にした。京阪電車ですぐのところにある。壮大な伽藍で、いやまあすごいの一言である。説明書きによれば、1654年(江戸時代)に中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や4代将軍徳川家綱の支援で1661年に開設した寺院で、日本三大禅宗(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)のひとつという。創建当時の姿をそのまま残しているとのこと。また面白いのは、黄檗宗では明代に制定された仏教儀式で儀式作法が行われ、たとえば毎日誦まれるお経は黄檗唐語で発音し、中国明代そのままの法式梵唄を継承しているという。面白い。文化大革命などを経てもはや中国でもこんな世界は残っていないだろうから、ここは400年前の世界がそのまま缶詰のように保存されているのだろう。



 たとえば、ここで修行する雲水は、巡照板という版木を朝四時と夜九時に朗々と唱えて起床と就寝を促すらしいが、それを「きんべ だーちょん せんす すーだ うーじゃん しんそ こーぎ しんきょ しんう ふぁんい」などとやっているらしい。無為に時を過ごすことを戒めている文句であるが、これを400年間、同じようにやってきたというのは、並大抵のことではない。ところが、その一方で在来の民間信仰にも、ちゃんと配慮してきたらしい。というのは、七福神「布袋尊」つまり「ほてい様」の金色の像も祀ってあるからである。にこやかにほほえんでお腹がでっぷりとした神様……といってもいいのだろうが……が祀ってある。今風にいえば、メタボリックなおじさんという雰囲気なのだが、何とこれが弥勒菩薩の化身とのこと……、弥勒菩薩といえば、中宮寺のやさしげな半迦思惟像を思い浮かべる身としては、それが実はメタボなおじさんだったというのは、何というか、天地がひっくり返った気がするほどの衝撃である。話は変わるが、この寺には木魚の原型となった魚板があり、時刻を報ずるものとして、いまも使われているらしい。



 半日で、11世紀の寝殿造りと17世紀の明朝期の寺院様式を一緒に見ると、いささか混乱する。本当は、時代の進展に伴って古い順から新しい順にでも見ていくことができれば理想だけれども、場所も散らばっているし、訪問することができる時期も違うので、なかなかそうはいかないところである。それにしてもねぇ、メタボなおじさんと弥勒菩薩とが一緒だったとは、団塊の世代には朗報なのかも。要するに、仏様は変幻自在。スーパーモデルにもなれば、相撲取りにもそのお姿を変えられるというわけだ……ホントかな……? ともあれ、不思議なお寺で今回の旅はしめくくり、京都駅で「おたべ」(おみやげ用)と「赤福」(車内食用)を買って、帰京の途についた。





(平成19年1月25日著)
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