This is my essay.








 年末年始の休みを利用して、東南アジアの首都やリゾートなどを旅した。東南アジアの経済を見るのに欠かせないのは、華僑の存在である。シンガポールには福建人、クアラルンプールには広東人が多いが、それ以外にも、潮州人、海南人、客家(Hakka)などがこの地域一帯に広く分散している。もともと、中国沿岸部の人たちであったが、人口増加や狭隘で痩せた土地柄から、海外に雄飛を試みた人たちの末裔である。18世紀以降、全部で5000万人を超える人たちが世界各地に散ったとされる。アメリカ大陸に行った人もいれば、東南アジア、とりわけ大英帝国の支配下にあったマレー半島には多くの中国人がやってきて、華僑として定着していった。シンガポールを含めたマレー半島では、華僑とその子孫の華人の数は、800万人を超え、世界最大の進出先のひとつといわれる。

 マレー半島での中国人は、商業に従事する者のほか、本来は錫鉱山やゴム園における労働者として来た者が多かったといわれている。しかし、何しろ中国数千年の血で血を争うような激しい生存競争の歴史を生き抜いてきた人たちの末裔であるから、ともかく逞しくて生活力にあふれている。東南アジアの灼熱の気候や猖獗の地をものともせず、肉体労働から商業の世界に活路を見出し、各地で経済の要となっている。

 もちろん弱肉強食の世界であるから、大金持ちもいれば、なお貧困に喘いでいる層もいる。しかし、いずれも政府など当てにせず………というか本来のよそ者として当てにできるはずもないのであるが………、人種も文化も慣習も気候も全く違う土地で外国人というハンディを負いながら、自分の才覚だけでそれなりの地位と財産を築いているのであるから、それは敬服に値することではなかろうか。

 そういう目で、やれ格差社会だ、ワーキングプアだと騒いでいる昨今の日本を見るにつけ、「何を甘えている。まず自分で能力を磨き、自ら生活の向上に努力すべきではないか。」などと、ついつい思ってしまう気にもなるのである。ところが今回、ある体験を通じて、それはあまりにも一面的すぎる考えではないかと思うに至った。結論から先に言ってしまえば、社会の安全弁や絆というものが一切合財それこそ跡形もなく消えてしまった現代の日本においては、自己責任という名の下に個人個人の努力を求めるにしても、限界があるのではないかということである。

 アメリカのようなキリスト教社会では、ホームレスのような人たちに対して、教会の炊き出しその他のチャリティー活動が活発に行われていて、これが貧富の差の激しい社会の安全弁となっている。華僑の世界では、どうやらそれに代わるものが、親戚、それに近所の親しいおじさんおばさん………これは時として親類以上に近しい存在となる………によって形成される濃密な近縁地縁集団なのである。

 こうした集団内部では、兄弟姉妹の仕事はどうか、年収はいくらぐらいか、奥さんとうまくいっているか、奥さんの親戚にはどういう人がいて、どうなっているか。甥と姪の名前、年齢、通っている学校、おおよその成績、将来の方向、時としてその友達関係まで、みんな知っている。これには驚いた。それからたとえば、甥が車を買うということを聞きつけて、親類一同がそれぞれいくばくかのお金を包み、それが集まると結構な額となるという。もちろん、その貧富に応じてであるから、貧しい者は、志程度か、もちろん出さなくてもよいし、反対に商売の羽振りがいい者は、それなりに出さないと白い目で見られることがあるらしい。このほか、貧しい親類は、親兄弟の家に居候させてもらって肩を寄せ合って生きているようだ。

 以上の家族や隣近所の「絆」のようなものが、いわば社会的な安全装置なのではなかろうか。これに比べると、現在の日本には、そういった安全装置が欠けている。キリスト教社会特有のキメ細かいチャリティー活動などは全くなく、ホームレスの救済なんぞは、市役所の仕事としか思っていない人がほとんどである。華僑の強固な家族構造といったものも、戦前にはあったかもしれないが、戦後は自己実現の名の下に進んできた「個の社会」が行き過ぎたせいか、叔父叔母甥姪どころか兄弟姉妹の間、いや親子でさえ、疎遠である。少し生活が苦しいというのであれば一緒に暮らせばよいのに、恥ずかしいのか、そういう知恵がないのか、ばらばらに住むので生活費が二重三重に必要となる。これではますます生活が苦しくなるばかりである。妙なところにルース・ベネディクトのいう恥の文化が生き残っているが、そういうものよりむしろこういう「家族の絆」のようなものが、現在の日本には決定的に欠けているのではなかろうか。

 前置きが長くなったが、今回の旅行では実におもしろい体験をした。同じホテルに泊まっていたシンガポール人夫婦(つまり、華僑)が、「今夜、ウチの母の80歳記念の大誕生パーティを催すので、来ないか。」と、さそってくれたのである。「日本でもそれは傘寿といって、たいへんめでたいことで、現に私の父の場合も一昨年親類が集ってお祝いの会を開いたが、まったく関係ない私たちのような者が出ていいんですか。」と聞くと、いとも気楽に「300席も用意しているので、2〜3人増えたって構わないよ。」という。そこで、お祝いのお金を多少包んで入り口の受付のお嬢さんに渡し、参加させてもらった。

 堂々としたホテルの大きな中華料理店の入り口にお嬢さんが3人いて、来る客に机上の赤い布に寄せ書きをしてもらっている。その横に本日の主役の80歳のお母さんが座っていて、来客ひとりひとりに祝福を受けている。品のいい紫色のチョンサム(女性の中華服)を着て、首の周りには真珠のネックレスをし、さらに「金」と書かれた金のネックレスを重ねてしている。お名前を「金玉」さんというらしい。どうも、日本語だと………ま、それはともかくご本人は80歳とはとても思えないほど、色艶も良く品のよろしい方である。

 次から次へとお客が入ってきて、それを親戚の印らしく胸に生花を付けた男女がテーブルを指し示して誘導している。全く慣れていないようで、大童であるが、ぞろぞろと入ってくる大勢のお客は慣れた様子でニコニコしながら席に着いていく。中には2〜3のインド人らしいおばさんが大きな果物籠を抱えてきて、それを受付に置いていく。しかし、それはほんの例外で、ほとんどのお客は、薄いピンク色のお祝儀を渡していくだけである。

 さて、パーティが始まると、最初にその主役の80歳のお母さんの前に大きなケーキを置き、親類一同らしい人たちがその周囲に群がって、ハッピーバースディの歌を歌いだした。それが、数十人もいるので、同じ席にいる人に、あれはどういう人たちだと聞くと、「みーんなあのお婆さんの子供とその奥さんそれに孫たちだ」という。「ええっ、あんなに」と驚くと、「そりゃそうだよ。8人兄弟だからね。」と事もなげにいう。それぞれに3人の子供がいるとして、40人もいるということになる。ちなみにこの人たちは、最前列の「主家」と書いた丸テーブルに座っていた。「皆、この辺りに住んでいるのか。」と聞くと、いやいや、シンガポール、クアラルンプールその他全国各地やオーストラリアなどに散らばっているという。そういう子供たちが家族そろってこのお婆さんのために帰ってきて、お祝いしている由。そして、あのお婆さんが付けているその名も「金」印の金のネックレスは、孫たちの有志がプレゼントしたものだそうだ。

 へーえ、という感じである。今どきの日本で、こういうことをやってくれるであろうか。同じ席に90歳のお婆さんがいた。これまた健啖家で出てくる料理をパクパク食べるのには驚いたが、そのひとに聞くと、「私のときも、やってくれたよ。先日は、近くの何とかさんも盛大に祝ったのにねぇ、その翌月に亡くなってしまったよ。」などと言っている。どうやら、しごく当たり前のようなことらしい。そこで別の人に、「失礼ながら、この家族はかなり裕福なんですか。」と尋ねたら、笑って「まあ、なんと言うか、ごく普通の家族だよ。ただ、兄弟が8人もいて、皆の仲は良いらしいね。」とのこと。これで中流の普通の家庭らしい。

 舞台では、若い賢そうな女性がスピーチをしている。「あの人は?」と聞くと、「ああ、あれはアイリーンちゃんだよ。この一家の輝ける星で、メルボルン大学の医学部に在学中さ。」とのこと。それか終わると、偉丈夫の大男が出てきて、なにやら大声で演説をしている。この人は、現地の中国人政党のお偉いさんで、来賓挨拶といったところ。しかし、ごく普段着で来ている。服装はどうなっているのかなぁと思って出席者を見渡すと、女性は要は普段着の延長のようなものだが一応はちょっとしたドレスらしきものを身に着けているものの、男性はほとんどか襟の付いたシャツで、スーツとネクタイ姿は主家の数人しかいない。日本のこの手の公式の席のように、やれ黒礼服だの黒留袖だのということは、一切ないようである。もちろん、中には現地の式服に相当するバティックを着ている男性もいたが、数はそう多くない。しかし、これでいいのではないか。そもそも日本の場合は、形式ばり過ぎている。

 さて、スピーチがひとしきり終わると、何とまあ、カラオケ大会が始まってしまった。だいたい、その政治家のおじさん自身が、スピーチの直後に突然歌いだしたのである。さてそれからが一騒動。次から次へと人が舞台に上がってきて、歌うは歌うは。こんなにカラオケが流行っているとは知らなかった。歌の中には、星影のワルツを歌ぁおぉう………、長崎は今日も雨だったぁ………ワワワワン………など聞きなれている曲かいくつもあった。これらを異国の地で聞くと、たとえ歌詞が中国語でも、まるで昭和50年代にタイムスリップしたような観がある。リズムに合わせて思わず体を動かしていたのだろう。それを世話役に目ざとく見つけられて、とんでもないことが起こった………「あなたも歌わないか」などと言われたりして………。勘弁してもらうのに、一苦労だった。いやはや。

 舞台上では次々に歌っている。それとはおかまいなしに、この「主家」の人たちは皆で兄弟ごと、孫ごとに集まって大声で「ヤーーーーームセン(乾杯)」なんてやってるし、果てはカラオケを歌っている人たちを押しのけ、舞台に孫世代一同が上がって大騒ぎをしている。男の子たちはマイクを握り、女の子たちは伴奏に合わせて両手をひらひらさせている。まるで学芸会だが、これほど芸達者だとは知らなかった。そうかと思うと、小学校低学年の三人組の女の子が出てきて、マイクを持って歌いだした。これが実に堂々としていて、誠にうまいのである。おそれいった。思わず「What wonderful singers they are!」というと、隣のおばさんが「Yeah! They need not study, anymore!」なんて言っていた。「芸があるから勉強なんかしなくていいのよ、この子たちは。」ということなのだろう。

 おやおや、主役のお婆さんを囲んで親類一同がまた集まり始めた。ひざまずき、小さなカップのお茶を奉げて、お婆さんにキスをし、お婆さんから赤い袋をいただいている。どうやら、祝意と敬意を表しているらしい。そのうしろでは、相変わらず来客が大声でカラオケに興じている。日本のようにしちめんどくさい式次第のようなものはないらしい。要するに、各自それぞれに徹底的に楽しめばよいようだ。実際的で良いではないか。

 こんな調子で4時間あまりが経ち、そろそろ皆さん飽きてきたと思う頃に、自然と主役と親類一同が出口に並んで立ち、帰っていくお客に挨拶したり、手を握ったりしている。音楽も調子のよいものとなり、あぁ、終わった終わったという感じである。見送る人も、ゾロゾロと出て行く人も、みんな、ニコニコ顔である。お互い手を握ったり、笑いあったり、いかにも楽しんだという思いが伝わってくる。

 日本人と華僑、同じような顔をしているが、文化が違うと、こうも違うものかとしみじみ思う。戦後の日本は、「家制度」という呪縛からの脱却がひとつの目標であり、それなりに成功したと考える。つまり、「家」にしばられていた「個人」を文字通り開放したのであるが、その反面、これによってなくしたものも多々あると思う。端的にいうと、それは「家族の絆」ではないだろうか。もちろん、戦前のような個人の自由を拘束する形式的な家制度というものはいただけない。しかしながら、この華僑の社会のように、形式ばらずに、自分たちのルーツとしての父母を大事にし、何かあれば自然に集まって助け合うという絆を大事にするということは、改めて学んでもよいのではなかろうか。彼らはこういう行事のことを英語で「reunion(絆)」つまり親類一同が寄り集まって親睦を深めるものといっていた。





(平成19年1月18日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)




ライン




悠々人生のエッセイ

(c) Yama san 2007, All rights reserved